【小澤征爾さん死去】訃報に際しNHKが触れなかった「N響事件」 “世界のオザワ”の原点、1962年の大騒動を振り返る

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定期演奏会が中止に

 11月になってN響側が「今後、小澤氏には協力しない」と表明する。曲目が変更され、リハーサルも減らされた。小澤はN響に対し「曲目変更はN響の責任であり、契約内容を保証せよ」などと要求する「覚書」を提出する。

「これが決定的な決別を招きました。ついに12月の定期演奏会が中止となったのです。病気や芸術面が原因ならわかりますが、“ケンカ”で定期が中止になるとは、前代未聞の椿事です」

 小澤は、このときの怒りを、「週刊新潮」の「週間日記」欄で、こう記している(1962年12月31日号)。

〈ボクは絶対にひけない。聴取料でささえられ、演奏を一般に提供するという義務をもっているはずのNHK及びN響事務当局が、こんなことで逆上し、一方的に演奏会を中止するとは。/午後七時、帝国ホテルのロビーに記者の方々に集まってもらい、ボクは事件のイキサツと自分の考えを発表した〉

 その会見で、「NHKとN響を名誉棄損、契約不履行で訴える」との過激な内容が発表された。事態は完全に泥沼化した。

「定期演奏会は中止になりましたが、それでも小澤さんは、予定通り東京文化会館へひとりで行くのです。上記『週間日記』でも〈ボクはどうしても会場へ行き、つとめを果たしたい〉と書いています。しかし当然、誰も来ていません。〈ステージ上でボクの靴音だけがヤケに響く〉。ところが、ここへなぜかマスコミが来ていたのです。団員がひとりもいないステージ上で、ポツンと立っている小澤さんの写真が新聞雑誌に載りました。その光景は、いかにも大組織NHKにいじめられ、ひとりで耐えている若者の姿でした。この写真のおかげで、世間は一斉に、小澤さんに同情的になるのです」

 実は、この写真は、一種の“演出”だった。

「このころ、小澤さんを守ろうという、若手文化人たちが集結していたのです。『小澤征爾の音楽を聞く会』なる、いわば自主公演組織が立ち上がっていました。発起人の中心は、作曲家・一柳慧と、詩人・谷川俊太郎。そのほか、作家・石原慎太郎や三島由紀夫、演出家・浅利慶太などもいました。先述の写真は、浅利慶太のアイデアだといわれています。騒動は、『国営放送NHK』vs.『若手文化人グループ』の構図に変貌し、拡大したのです」

 つまり、この事件を深掘りすることは、NHKとしては体裁がよくない……だから、今回のニュースでも触れなかったのか?

もう日本に戻るつもりはなかった

 その後、中止となったN響定期公演にかわって、翌1963年1月15日、日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聞く会」が開催される。オーケストラは分裂以前の日本フィルハーモニー交響楽団。開会挨拶は、小澤の仲人で、作家の井上靖がつとめた(小澤は、この年の1月、ピアニストの江戸京子と結婚したばかりだった。4年後に離婚するが、彼女も、この1月23日に86歳で没したばかりだった)。

 この公演を聴いた三島由紀夫は、感動のあまり、翌日、かなりの長文〈熱狂にこたえる道 小澤征爾の音楽会をきいて〉を、朝日新聞に寄稿している(1963年1月16日付)。15日夜公演のレビューを、翌16日朝刊に載せたのだから、すごい勢いである。三島は、こう書いている。

〈最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆が、こんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。(略)当夜の喝采は、大げさにいうと、国民的喝采であった。小沢氏は汗と涙でくちゃくちゃの顔を、舞台裏で何度もタオルでぬぐい、また拍手にこたえて出て行った。(略)私は友人として、涙と汗にまみれた彼の顔を見ながら、/「そら、ごらん、小沢征爾も日本人だ」/と思い、意を強うした〉

 結局、このあと、小澤とN響は、文芸評論家・中島健蔵、音楽評論家・吉田秀和、作曲家・黛敏郎の仲介で和解する。そして1月18日午前10時、羽田発の日航機で、アメリカへ“帰って”いくのである。

 このときの心境を、小澤は〈もう日本に戻るつもりはなかった〉と記している(私の履歴書)。半年間、日本のクラシック界を襲った台風が去っていったようだった。

「この騒動がなければ、小澤さんは、日本で安泰の指揮者生活をおくり、“世界のオザワ”にはなれなかったでしょう。というのも、このあと、小澤さんは、北米で素晴らしい仕事を次々と成し遂げるのです」

 シカゴ交響楽団を振り、さらにトロント交響楽団指揮者、サンフランシスコ交響楽団音楽監督に就任する。

 先の音楽ジャーナリストは、この時期の小澤征爾が大好きだという。

「日本は自分を見限ったとの思いがあるのか、ふっきれた、若々しい演奏ばかりです。そもそも、海外のメジャー・オーケストラのLPジャケットに、堂々と顔が載る日本人なんて、このとき初めて見ました。特に、サンフランシスコ交響楽団の《パリのアメリカ人》のジャケットは、まるで当時のヒッピー風ファッション。アメリカでは、こんな服で指揮しているのかと驚いたものです。トロント交響楽団の《幻想交響曲》ジャケットは、まるで少年のような静謐な表情ですが、演奏はものすごい熱気。そのギャップにも感動しました」

 その後、小澤は1973年にボストン交響楽団音楽監督に就任し、2002年までつとめることになる。ウイーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサートへも登壇、ウィーン国立歌劇場音楽監督もつとめ、いわば世界クラシック界の頂点に立った。しかし、その原点はN響事件だったともいえるのだ。

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