【小澤征爾さん死去】訃報に際しNHKが触れなかった「N響事件」 “世界のオザワ”の原点、1962年の大騒動を振り返る
訃報に際しファンが抱いた違和感
“世界のオザワ”と呼ばれた指揮者、小澤征爾が2月6日に亡くなった。享年88。「東洋人には西洋のクラシック音楽はできない」といわれた時代、単身、その「西洋」に乗り込んでいった。いま、海外で「日本人に西洋クラシックは無理」なんていったら一笑に付されるだろう。それは、“開拓者”小澤征爾のおかげなのである。
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「訃報が流れたのは2月9日の夕方過ぎでした。さっそくその夜の『NHKニュースウオッチ9』は、トップで、しかもかなりの時間を費やして報じていました。しかし……」
と語るのは、あるベテラン音楽ジャーナリスト。何やら気になることがあったという。
「1962年の、通称“N響事件”に、まったく触れていなかったのです。もう古い話ですし、NHKとしてはお膝下で起きた騒動ですから、扱いにくかったのかもしれません。しかし、小澤さんの人生を語るうえで、また、戦後の国内クラシック音楽界を語るうえでも、この事件を避けて通ることはできません」
N響事件とは、NHK交響楽団が、自ら招聘した小澤をボイコットし、演奏会が中止になった騒動だ。一般には、海外で成功した小澤の態度に、N響が拒否反応を示した――といった構図で語られてきた。
「しかし、実態はそう単純な話ではありません。そもそも、この騒動がなければ、小澤さんは、“世界のオザワ”にはなれなかったかもしれないのです」
いったい、N響事件とは、どういう騒動だったのだろうか。詳しく振り返ってみよう。
海外で先に成功してしまったために
「そもそも小澤さんは、最初、日本ではなく海外で成功してしまった人でした。いまでこそ、海外コンクールで入賞し、日本に“逆輸入”されるアーティストは珍しくありませんが、当時は考えられないケースでした」
と、先の音楽ジャーナリストが語る。
「その道のりは、彼の青春回想記『ボクの音楽武者修行』(1962年4月、音楽之友社刊/現・新潮文庫)に生き生きと描かれています。1980年に文庫化されて以来、いまでも読まれつづけているロングセラーです。桐朋学園短期大学(現・桐朋学園大学音楽学部)を卒業後、1959年に〈外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間を、じかに知りたい〉と、単身ヨーロッパにわたり、日本にもどるところまでが描かれています」
ヨーロッパでは、持ち前の好奇心と行動力が大爆発。ブザンソン国際指揮者コンクールで1位。カラヤン指揮者コンクールでも1位となり、“帝王”カラヤンに師事する。その後アメリカにわたってバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。さらには、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、バーンスタインに師事する。これらの快挙を、25~26歳の若者が、わずか2年ほどで成し遂げたのである。
「そんな若者にNHK交響楽団が目を付けたのは当然でした。客演指揮者として、1962年6月から半年間の契約を結びました。実は、この契約が、いまから思えば重すぎたのです。なにしろ、年末の《第九》まで、ほとんどすべての公演を、まだ26歳の青年ひとりにまかせたのですから。その間、国内ツアーや東南アジア・ツアーまでありました」
出だしは順調だった。7月4日、オリヴィエ・メシアンの大作《トゥランガリラ交響曲》日本初演を指揮し、大成功させた。
「フランスから作曲者メシアン本人が来日し、終演後、ともに舞台上で拍手を浴びる若き小澤さんは、まさに新時代を告げるヒーローでした。ところが、次第にN響との関係が、ギクシャクしはじめます」
これについては、後年、小澤自身が「私の履歴書」(日本経済新聞2014年1月連載)で、回想している。フィリピンにおけるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番で、こんなことがあった。
〈現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。/僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎごちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった〉
実は、コンクール歴こそ華々しかったが、まだ本番ステージの経験は乏しかったのだ。
「そもそもN響はドイツ系で、旧・東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)卒業生が多いオーケストラでした。そこへ、創設間もない桐朋学園の卒業生でフランス経由アメリカ帰り、しかも、当時はまだあまり知られていなかったブザンソンのコンクールで優勝したとかいう若者がやってきたのですから、古参の団員にとっては、面白くなかったでしょう。小澤さんにも、遅刻やミスが多かったようですが、なにしろものすごい公演数の契約でしたから、ちょっと気の毒な面もありました」
後年、ドキュメンタリー映画「OZAWA」(メイズルス・ブラザーズ監督、1985)のなかで本人が、珍しくN響事件について述べている。
「僕は何から何までアメリカ流で、あけっぴろげだった。日本のやり方を、まったくわかっていなかった。出る杭は打たれるんだ」
そして事態は、さらに混迷の一途をたどる。
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