小学校卒業と同時に貴ノ花を訪問、直談判…貴闘力の相撲人生はとにかく劇的だった
平成3年の夏場所、18歳の貴花田に続いて横綱・千代の富士に土を付けた貴闘力。大横綱の「現役最後の対戦相手」となった運命は、貴闘力の劇的な土俵人生を象徴していたのかもしれない。幕尻からの優勝、弟子の大麻所持疑惑、野球賭博による相撲協会からの解雇……波乱の人生を歩んだ名力士を振り返る。※双葉社「小説推理」2011年5月号掲載 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を再編集
【写真】子連れ客に肉を焼く姿も…貴闘力、プロデュースする焼肉店での様子
貴ノ花のもとに押しかけた少年
昭和55年春、人気大関・貴ノ花の自宅に、1人の少年が現れた。小学校を卒業したばかりのその少年の名は、鎌苅忠茂。
「どうしても力士になりたい」。その一心で、大ファンだった貴ノ花のもとに、叔父の付き添いで直接押しかけたのである。
貴ノ花と鎌苅少年とは、1年前の春場所の際、会ったことはあった。力士志望だとは聞いていたが、まさか本当に訪ねてくるとは……貴ノ花は驚き、呆れた。しかも、まだ12歳である。
力士になるには、少なくとも中学を卒業していなければならない。鎌苅少年は、その規則を知らずに、1日でも早く力士になろうと、いても立ってもいられず、東京に向かったのだった。
貴ノ花は困惑した。しかし、少年の情熱を無にすることはできない。そこで、鎌苅少年を自宅に住まわせ、杉並区内の中学校に通わせた。まだ幼い貴ノ花の長男・勝(のちの横綱・若乃花)、次男・光司(のちの横綱・貴乃花)と一緒に遊び、夜は同じ部屋で寝るという生活が半年続いた。
中学卒業後、晴れて貴ノ花の弟子に
鎌苅少年こと忠茂の中学卒業までは、まだ時間があった。そこで、貴ノ花は一旦実家に帰すことにした。
「中学を卒業したら、またおいで」
福岡の実家に戻り、地元中学で柔道部に入った忠茂は、めきめき頭角を現した。中学3年の時には、全国大会で準優勝(団体戦)。
そして、昭和58年春、中学を卒業した忠茂は、晴れて貴ノ花の弟子となった。昭和56年初場所限りで引退した貴ノ花は、新たに藤島部屋を興しており、忠茂にとって絶好の環境が整っていたのだ。
同年春場所、藤島部屋に入門した新弟子は13人。引退後も根強い貴ノ花人気があったとしても、今では考えられない人数である。
同期生13人の中で、忠茂は目立つ存在だった。前相撲では、まだ相撲に慣れていないこともあって、二番出世だったが、翌場所は序ノ口で6勝1敗の好成績を収め、優勝決定戦に進出している。
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