昭和の名優・長谷川一夫「顔面切り付け事件」 本人が「表沙汰にしないで」と懇願、最後は黒幕と組んだ意外な顛末

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芸名返上を迫られ、本名の長谷川一夫で復帰

 懸念された顔の傷は思いのほか治りが早く、1カ月後には退院にこぎつける。傷跡は確かに深く顔に残ってはいたが、時代劇の濃い化粧を施せばなんとか復帰は可能と思われた。

 翌昭和13年、長谷川は菊池寛原作の「藤十郎の恋」で再起を図った。撮影直前、松竹が林長二郎の芸名返上を迫ったため、本名の長谷川一夫での第1作ともなったが、興行的にもヒットし、長谷川も東宝も安堵の胸を撫で下ろした(これでわかる通り、移籍に伴う芸名返上騒動は加勢大周が初めてではない)。

 以降、最後の作品「江戸無情」まで、映画の主演作は301本にのぼり、昭和を代表する時代劇俳優となった。

 傷については、終生これを気にして、

「私は左の頬の傷をメーキャップするのに1時間かける。だから私には一日23時間しかない」と言うほどだった。

 ところが、事件そのものについては口を閉ざし続け、戦後の昭和25年にはなんと、永田雅一が社長を務める大映に入社し重役に就任。事件の黒幕と言われた男と手を握ったのである。

芸能界の底知れない無気味さ

 事件には実はこんなオチもあった。長谷川が林長二郎だった当時、祇園に惚れた芸妓がいたのだが、その同じ芸妓に永田雅一も熱を上げていたというのである。そうした私怨も絡んで、永田が事件を仕組んだという。この芸妓は後に永田の妻となった。

 しかし長谷川は、家族や友人が事件について話を蒸し返そうとしても、「もうすんだことだし、私が犠牲になったことで映画界が近代化されたのだから」と言って取り合おうとしなかった。

 確かに、長谷川の事件以後、移籍に絡んだ暴力沙汰は根絶されたが、自分の顔を切り刻んだ黒幕と手を握るという意外な顛末に、芸能界の底知れない無気味さを感じた者もまた多かった。

 晩年も、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」(初演、74年)の演出を手がけるなど華やかな話題をまいた長谷川一夫は、昭和59年、76歳で死去した後、国民栄誉賞を受賞した。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部

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