昭和の名優・長谷川一夫「顔面切り付け事件」 本人が「表沙汰にしないで」と懇願、最後は黒幕と組んだ意外な顛末
京都の街をかけ巡った号外
鏡に見入った瞬間、長谷川は、自分の俳優生命は終わったと観念した。そこには、ざくろのように無惨に切り刻まれた左の頬が映っていたのである。
病院で診察を受けた結果、傷口は二筋あり、一筋は左目の下から上唇にかけて12センチ、もう一筋は、左目の下から頬にかけて10センチ、深さは2センチにも達していた。犯人は、安全剃刀を二枚重ねにして切りつけたらしい。
「長二郎切られる」の報は号外となって京都の街をかけ巡った。
絶対安静、面会謝絶の病室で、長谷川は気が塞ぐばかりだった。しかし、演技のことに思いが及ぶと不思議に元気が出た。彼は、自分が被った刃傷沙汰さえも演技にいかそうと考えた。
(そうだ。忠臣蔵の浅野内匠頭を演った時、松の廊下で「お難しくだされ!」と叫びながら上半身を前へ前へと倒していったが、実際は逆だった。止めに入る人が大勢いるのだから、上半身はむしろ、後へ倒れるくらいが本当だ。そうだ、この次にはこれでやってみよう!)
だが、この傷では再び演技をすることなど叶わないと我に返っては、包帯でぐるぐる巻の傷の上に涙をこぼした。
事件を表沙汰にしないでください
事件から4日後の11月16日に犯人が逮捕された。朝鮮生まれの元運転手・中島金郎こと金成漢という23歳の男だった。そして25日には、松竹系の新興キネマ常務取締役の永田雅一が警察に召喚された。事件の黒幕と見られたのである。
続いて、増田三郎、笹井栄次郎なる人物が勾引された。笹井は、新興キネマの用心棒だった男で、永田の意を受けて増田に犯行を命じた。その増田はさらに、知り合いの金に長谷川を襲わせたという。しかし、誰の目にも黒幕と思われた永田は不起訴となり、笹井、増田、金の3名が起訴され、笹井は1年、増田、金はそれぞれ2年の懲役刑に処せられた。
現在では、実行犯は増田で、金は単なる身代わりではなかったかとも言われているが、結局、背後関係がうやむやのまま幕引きとなった。
そこには、被害者である長谷川の意向が強く反映されていたのである。彼は警察の聴取に対し、こう懇願していた。
「事件を表沙汰にしないでください。私さえ我慢すればこんな不祥事は私を最後になくなるでしょう。相手方を追及して背後関係を明らかにすれば、かえって大きな問題になり、私の立場もなくなる」
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