昭和の名優・長谷川一夫「顔面切り付け事件」 本人が「表沙汰にしないで」と懇願、最後は黒幕と組んだ意外な顛末
“忘恩の徒”に誹謗中傷
だが、人気が出れば出るほど、長谷川の中には松竹への不満が募った。ひとつは金である。彼が松竹に在籍していたのは11年間だが、その間、給料は入社当時のまま250円に据え置かれていた。ライバルの片岡千恵蔵1500円、大河内傳次郎1000円の時代に、である。
さらに、20歳で舞台に戻すと、師匠の中村鴈治郎と松竹の間で約束ができていたはずなのに、それが反故になったことも、長谷川の不信を買った。
そこへ近づいてきたのが東宝である。東宝は、総帥・小林一三が直々に長谷川と交渉を進め、昭和12年10月、長谷川29歳の時、専属契約を結んだ。
松竹とは前月の9月に契約が切れていたものの、“後ろ足で砂をかけられた”形の松竹は当然激怒、マスコミもこの“忘恩の徒”に誹謗中傷を浴びせ、銀幕のスターは一転、悪役となってしまった。
このトラブルは家庭生活にも影響した。長谷川は、昭和5年に中村鴈治郎の次女・たみと結婚、一男一女をもうけたが、彼女も松竹残留を主張したため二人の間で大ゲンカとなり、後に離婚してしまう。
傷口に指がめり込む
そして運命の11月12日である。東宝移籍第一作の「源九郎義経」の宣伝スチール写真の撮影のため京都の撮影所に入った長谷川は、夕方、撮影を終え、宿泊していた東宝専務の別邸に帰宅するところだった。
途中、暗がりから、「林さん」、そう呼ばれて振り向いた瞬間、真っ黒な塊が長谷川にぶつかり、顔に焼けつくような痛みを覚えた。必死にマフラーで払いのけると、黒い塊は一目散に逃げ出した。
長谷川は左頬を押さえてうずくまったが、その手と言わずマフラーと言わず着物の袖口と言わず、温かいねっとりとした液体がしたたり落ちた。それは真赤な血だった。恐る恐る左頬に手をやると、中指と人差し指がずぶりと2、3センチもめり込み、激痛が全身を貫いた。
撮影所から差し回された自動車に乗り込み、病院に直行しようとしたが、長谷川は何を思ったか車を降り、「鏡を、鏡を見てきます!」と叫んで俳優部屋に駆け込んだ。そこには大きな姿見があった。
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