忠犬ハチ公 好物はヤキトリ、無名時代は駅員にイジメられたことも、銅像と軍国主義の関係…知られざる生身の姿

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死後63年目に初めて内臓を一般公開

 昭和十二年生まれの一人氏は、残念ながら、祖父もハチ公も直接には知らない。

「改札口で人待ち顔で座っていたことは確かなようですが、ヤキトリの話も聞いたことがあります(笑)。まあ、みなさんがかわいそうに思って、いろいろやっていたんでしょう」

 前述した通り、ハチ公が死んだのは昭和10年3月8日。渋谷駅から少し離れた路上で冷たいからだとなっていた。死因はフィラリア。ただちに盛大な葬式が営まれ、東大で解剖された後、内臓はホルマリン漬けに、毛皮は剥製にされて上野科学博物館に保存された。

 晩年のハチ公は、寄る年波で、片耳も尾っぽもだらりとたれ下がり、若い頃の面影はとどめていなかったが、剥製になったハチ公は実年齢よりはるかに若くはつらつとして、まるで生きているようだ、と評判をとった。それに比べると渋谷駅の銅像の方は、その物哀しげな表情と言い、ハチ公の晩年そのままである。

 ハチ公の内臓の方は、平成10年3月、東大で開かれた「ヒトと動物の関係学会」で特別展示され、死後63年目にして初めて一般公開された。それによると、肝臓は肝硬変に近い状態だったようだ。

みなに可愛がられて天寿を全う

 初代の銅像は短命だった。昭和16年に太平洋戦争が勃発し、次第に戦局が厳しさを増すと、昭和19年、金属供出命令で銅像が撤去されてしまったのだ。

 この時、実は銅像だけでなく、生きた犬や猫にも供出命令が下っていた。こちらは軍用犬や兵士の防寒用毛皮にするのが目的だったが、お国のために愛犬や愛猫を泣く泣く供出させられて、悲しい思いをした人も多かったのだ。

 戦後は、焼け野原になった渋谷駅頭に石の台座だけが寂しく残っていたが、昭和23年に「ハチ公銅像再建委員会」が結成され、23年8月15日に落成した。だから、今我々が見ているハチ公像は2代目ということになる。

 死後こそ戦争に翻弄されて数奇な運命を辿ったが、生前のハチ公は、渋谷の街を自由にうろつき、晩年はみなに可愛がられて天寿を全うした。その一生は、戦争前夜、束の間の平和を謳歌した昭和ヒトケタ時代の象徴でもある。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部

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