忠犬ハチ公 好物はヤキトリ、無名時代は駅員にイジメられたことも、銅像と軍国主義の関係…知られざる生身の姿

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本当のきっかけは朝日新聞への投書?

 当時、渋谷駅前の小さなおでん屋(ヤキトリ屋という説も)には、渡辺氏を始め、警察まわりの記者連中がたむろしていた。するとその足下へ大きな犬が現れて一同びっくりしたが、食べ残しを投げると飛びついた。

「おやじさん、野良犬かい?」

 記者たちがおでん屋の主に聞くと、「6、7年前に飼い主の大学教授が亡くなったが、いまでも駅をうろついているんだ」という返事。

 その話にヒラメいた渡辺氏、

「いい話だ。いっちょ書いてみるか」

 と書き上げたのがあの記事だという。

 しかし、前述の林さんがまとめた『ハチ公文献集』によれば、話はちょっと違う。昭和3年に「日本犬保存会」を創立した日本犬の研究家・斉藤弘吉氏が、朝日新聞に投書して記事ができたとある。

 斉藤氏は、渋谷駅前に佇むハチ公を見かけてその素性を調べ、その哀しい身の上に感じ入り、なんとかハチ公のことを世に知らせようと考えて、朝日新聞に投書したという。とすれば、あるいはこの斉藤氏の投書をもとに、渡辺氏が記事を書いたという説も成り立つ。

東京まで汽車で送り届けられた子犬

 ハチ公は大正12年11月20日、秋田県生まれの純粋な秋田犬のオスである。朝日の記事中に「雑種」とあるのは、半野良化して毛皮が薄汚れ、さらに、以前はピンと立っていた耳が垂れ気味になっていたせいであろうか、ハチ公の名誉のためにつけ加えておく。

 この子犬は、ちょうどその頃、純粋な秋田犬を探していた東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士にもらわれることとなり、大正13年1月14日、東京まで汽車で送り届けられた。子犬は「ハチ」と名づけられ、座敷で博士といっしょに食事をするほど可愛がられた。

 博士は、渋谷区大向(現在の東急百貨店本店あたり)に住んでいたが、駒場の東大で講義する傍ら、北区西ヶ原の農事試験場にも通っていた。そこで、いつも利用する渋谷駅までハチ公は毎日、博士の送り迎えをしていた。

 だが、大正14年5月21日、上野博士は教授会の席上、脳溢血で倒れ急逝した。そうとは知らないハチ公は、朝晩、渋谷駅に亡き主人を求めて通うようになった。博士が没した時、ハチ公は、肩までの高さ64センチ、体重41キロの立派な成犬となっていた。

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