愛子さま 担当記者は「まさか就職されるとは」と驚き…忘れてはならない“危機”も
「ホントに10代8人だけなのか」の声も
今上天皇が第126代天皇となる皇室の歴史で、女性天皇は10代8人いたと定義されている。
飛鳥時代の593年に即位した第33代の推古天皇に始まり、江戸時代の1771年に退位した第117代の後桜町天皇までの計8人だ。この間、斉明天皇として再び皇位に就いた(重祚した)皇極天皇と、称徳天皇として重祚した孝謙天皇の2人がいた。天皇・皇族の戸籍に当たる大統譜や皇族譜といった皇統譜、明治天皇紀や大正天皇実録、昭和天皇実録といった歴代天皇の伝記(紀・実録)を扱う書陵部の勤務経験がある宮内庁元職員は、
「幕末から大正時代にかけて大枠が整理された皇室の歴史は、しっかりとした根拠に基づく正当なものです」と指摘する。だがその上で「史学、考古学の研究が日々進んでいる以上、全く誤りがないとはもちろん言えません」と、本音も吐露する。
10代8人の女性天皇が天皇史上では「ワンポイント・リリーフのような存在」というのが、男系男子の皇位継承を絶対視し、女性天皇に反対する識者の主流的な考え方とされる。
「126代のうちの10代ですから約8%。少ない印象ですが男性天皇が大原則と言うのであれば、十分に多い数字であるとも言えます。それに『女性天皇ってホントにそれだけなのかな?』といぶかる(疑う)声も、仲間内ではありました」(前出の宮内庁元職員)。
明治時代以前には、三韓征伐の武勲で軍神と呼ばれる神功皇后を天皇とみなして第15代の帝とした『扶桑略記』『常陸国風土記』『神皇正統記』などの史書もあった。中国の史書『宋史』には「神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とある。だが、1926年の皇統譜令で皇統譜の歴代天皇から外された。
「皇位の男子継承絶対主義に基づき女性天皇にカウントしたくなかったからではないでしょうか」(同)
第何代とナンバリングはされていないが、飯豊天皇の名で知られる女性皇族もいた。お墓(はか)については、皇族が一般国民と同様の墓(ぼ)なのに対して、天皇は陵とのネーミングで区別されている。飯豊天皇の場合は『日本書紀』で「葛城埴口丘陵」と記載されている。また死去した場合も皇族は薨去だが、天皇だけは崩御で、『日本書紀』には飯豊天皇について「崩(御)」と表記されている。『扶桑略記』では「飯豊天皇」とはっきり明記されている事実もある。
さらに女帝だった可能性がある3人目として「穴穂部間人皇女」も史家の間ではよく知られる。第29代欽明天皇を父とし、異母兄の大兄皇子(第31代用明天皇)に嫁いで、廏戸皇子(聖徳太子)らを産んだ。久子さまが奉賛会の名誉総裁を務められる奈良の中宮寺は、聖徳太子が母の御所の跡を寺にしたものとされる。
「歴史の解釈である以上、10代8人も捉え方の1つ。皇室の減退を憂うるのなら、歴史の枝葉末節ではなく本質に目を向けるべきです」(同)
さらに宮内庁プロパーの元幹部は、
「愛子さまは社会人の一歩を踏み出されます。議論を妨げているのは保守を掲げながら皇室の将来に責任を負わない人たちです」
と“自称保守派”に手厳しい。愛子天皇待望論は単なる待望論で終わるのか。今国会に注目だ。
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