「天才歌人・西行」が出家した理由をめぐり議論百出――小林秀雄が出した「ちゃぶ台返し」の答えとは?

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 西行(1118~1190)といえば、『新古今和歌集』に最多の94首が選入された天才歌人。若く、お金持ちで、前途有望だった西行が、23歳の若さで突然出家したことをめぐり、作家や学者など多くの人々が、その理由について議論してきた。

 西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)では、出家の理由として「潔癖説」「恋愛説」「数寄説」の三つを挙げた上で、批評家・小林秀雄(1902~1983)の意見に賛同している。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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出家の原因は「数奇」なのか

 近年、西行の出家の原因を「数奇(すき)」(風流の道に深く心を寄せること)を希求してのものだとする見方もなされている。
 
 たしかにそのような一面もあったかもしれない。ただようやく和歌というものに親しみ始めた西行に、それを生涯の目的として出家という行動をとらせる動機となったとは考えにくい。

 西行における出家はしたがって、ただ一つの理由によって行なわれたというより、幾つもの理由が重なって実行に移されたと考えられるのである。

 西行には、生涯に何度かの人生の節目となる出来事があった。例えば出家、奥州への二度にわたる旅、大峰(おおみね)修行、西国・四国への旅など、それぞれ人生の大きな転機となっている。中でも出家は、生涯の生き方を決定した最大の転機と言ってよい。

「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ」(いくら惜しんだからといって、惜しみきれるこの世でしょうか。そうではございません。身を捨てて、すなわち出家してこそ、我が身を助けることになるのです)

「身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」(出家して身を捨てる人は、ほんとうに捨てているのでしょうか。そうではありません。捨てない人こそ、捨てているのです)

「惜しむとて」は『玉葉和歌集』に西行法師の名で、「身を捨つる」は『詞花和歌集』に「読人しらず」として採録されており、前者は詞書によれば、出家に際し鳥羽院に挨拶した歌、後者は具体的な詞書が付されていないが、同様の心境を詠じた歌と推定されるものである。これらの歌によって、出家は西行にとって、自己をより十全に生かすための決断であったことが知られる。

西行の「剛毅な一面」

「世の中をそむき果てぬと言ひ置かむ 思ひ知るべき人はなくとも」(世の中に背を向け、出家したと言い置こう。たとえ自分の心を充分に理解してくれる人がなくとも)

 これも出家した折に、ゆかりのあった人に、言い送った歌だという詞書が付されている。「思ひ知るべき人」は、ゆかりのあった人よりももう少し広く、一般性をもった人と解してよいであろう。ここにはたとえ自分の行動を理解してくれる人が無くとも、敢然として信じる道を行くという強い決意が表明されている。
 
 西行は、月に向って一晩中涙を流すような、いわば女房文学の系譜に連なる性格をもつ歌も詠じているが、他方、こうしたきわめて意志的な、剛毅な一面も持っていたのである。というより、西行の生涯を俯瞰(ふかん)すれば、後者がむしろ本質的な部分を形成していることが知られる。

小林秀雄の「ちゃぶ台返し」

 さて、以上出家の理由について考えてみたが、前述したように、西行自身はこの点について明確に語ることをしていない。その事実をもう一度確認する必要があろう。
 
 西行は、家族的周辺の人物を自らの歌に詠むことをしなかったが、同様に出家の事情の核心についても、精神の最深部に属するがゆえに、他に漏らすことをむしろ意識的に避けたのではなかろうか。そうであるとすれば、もともと他人による詮索はきわめて困難だ、というより不可能であって、上述した出家の理由も、あくまで一つの推測にしかすぎないことになるのである。

 今までも西行の出家の理由を追求する論文は多数書かれたし、今後も多く書かれるであろうが、どこまでいってもそれを突き止めることなど不可能であると思われる。出家の理由などは、それこそ西行自身に聞いてみるしかあるまい。
 
 小林秀雄が『無常といふ事』の中で述べているように、「彼(西行)が忘れようとしたところを彼とともに素直に忘れよう」という評言が、この問題に対する態度としては、もっとも的を射ているようである。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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