昭和天皇も見入った麒麟児の突き押し相撲 昭和56年名古屋場所から3年間続いた“面白い現象”とは

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 昭和28年生まれの力士「花のニッパチ五人衆」として注目された麒麟児(のちの年寄・北陣、2021年没)。五人衆の仲間が1人、また1人と引退してもなお、黙々と汗を流して鍛え続けた“最後の1人”だ。若々しい突き押し相撲で天覧相撲を大いに盛り上げつつ、黙々と、ひたすらに突き進んだその土俵人生とは。※双葉社「小説推理」2014年3月号掲載 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を再編集

昭和天皇が身を乗り出して観戦

 昭和50年初場所。前頭筆頭まで番付を上げた21歳の若武者・麒麟児の対戦相手は横綱・輪島。

 突き押し相撲が得意な麒麟児の思い切りのいい突き放しに、輪島はバッタリと土俵に沈む。この初金星が自信となり、この場所10勝を挙げた麒麟児は、翌春場所には小結に昇進し、再び輪島を撃破。そして迎えた夏場所2日目、またしても輪島を破り、麒麟児は乗りに乗っていた。

 こうして迎えたのが、中日の富士櫻戦である。昭和天皇が見守る中での、突き押し相撲同士の対戦は、猛烈な突っ張り合いとなった。両者が繰り出した突っ張りは、計108発。最後は富士櫻の一瞬の隙を突いた麒麟児の勝利となった。この相撲を昭和天皇は身を乗り出して観戦され、

「厳しい、いい相撲だね」

 と、微笑まれた。

 その後、麒麟児―富士櫻戦は、天覧相撲の好カードとなり、制限時間前に立つこともあるなど、両者は死力を尽くした相撲を見せ続けた。天覧相撲にめっぽう強かった麒麟児は、「できれば、陛下に毎日来ていただきたいです」と語っていたほどだった。

いっちょう有名になってやろう!

 昭和28年、千葉県柏市に生まれた麒麟児こと垂沢和春(たるさわかずはる)少年は、子供の頃から体が大きかったことから、柔道教室に通い始めたのが、小学2年生の頃だった。

 中学校に進む頃には、和春は体重90キロの堂々たる体格。柔道の腕も上がってきて、中学1年生の時には、学年別の柔道大会で優勝したこともあって、腕っぷしには多少の自信を持つようになっていた。

 和春の父、祖父は、国鉄(現在のJR)職員。駅長を務めるなど、鉄道マンとして地道に生きる父、祖父の姿は尊敬の対象だったものの、自分の将来を考えた時には、今一つ物足りなさを感じていた。いつの頃からか、和春は、「将来はなにか思い切ったことをやってみたい」と、胸をふくらませるようになっていた。

 そこで思い立ったのが、力士になることである。柔道で鍛えた体を生かすのは、力士が一番向いているのではないだろうか? 力士になって出世して、いっちょう有名になってやろう!

 和春がその夢を実行に移したのが、中学2年の夏休みのことだった。

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