出会った人の言葉が絵のアイデアに早変わり 横尾忠則が発明した制作方法

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「話食い」という言葉があったと思って、ことわざ慣用句辞典など調べてみたが、見つからない。物知りの友人達に聞いても誰も知らないと言う。さては郷里の方言かも知れないと思って郷里の人達にも聞いてみたが誰も「聞いたことがない」と言う。では僕は一体、誰からこの言葉を聞いたのだろうか。母からかな? 誰からか聞いた話を再現して語ることを「話食い」といつの間にか自分の解釈で通し、また、造語のようにしていたのかも知れませんが、でもこんなシャレた表現を僕がするわけはありません。また、この言葉を日常的に使用することも全くないのです。

 なのに、つい先日、絵のモチーフが浮かばなくて困っている時、フト、誰かが口にした言葉が面白かったので、その言葉というか話を絵にしてみようと思ったら、僕の頭の中に「話食い」という言葉がフト浮かんだのです。ところが先ほども書いた通り、普段この言葉を使ったことは全くないことに気づきました。こんな言葉が本当にあるのかどうかさえ知りません。なのにどうして、この言葉が頭に浮かんだのでしょう。

 絵のアイデアに困った時、なぜかこの言葉が浮かんだので、「話食い」とは一体どういう意味なんだろうと考えました。話を食うというのだから、自分の話ではなく、どうやら人の話を食うという意味ではないでしょうか。そこで僕は勝手にこの言葉の意味を決めました。「食う」をパクると解釈すると、人の語った言葉をあたかも自分の言葉のようにしてしまう、きっとそういう意味に違いないと考えたのです。そう結論を出すと安心してしまいました。

 子供の頃、母が時々僕に向って「話食い」と言っていたように思います。不確かではありますが、ごく最近、この言葉が頭に浮かんで以来、ちょっと気になる言葉として頭の片隅に置いており、会う人達に、この「話食い」という言葉を知っていますかと、聞くのですが、ほとんどの人が首をかしげます。まあ、この言葉の源泉はあるのか、ないのかはともかくとして、僕にとっては物凄く重要な言葉になるような気がしています。「神は細部に宿る」というように、この「話食い」という言葉は、もしかしたら僕の神になるのではないだろうか、とまるで何かの鉱脈を発見したかのように、ちょっと欣喜雀躍的に興奮して喜んでいるのです。

 絵のアイデアなんて、捜し廻ったり、努力するものではなく、昨日会った人の言葉の中にアイデアになる言葉があったんではないのか、ということにフト気づいたのです。だからその人の語った言葉を絵にすれば面白いのではないかということです。アイデアなんて、シャカリキになって捜し廻らなくても、「神は細部に宿る」と思えば、昨日会った人の言葉も神の言葉に早変りするものです。

 この間、パリのカルティエ現代美術財団の学芸員の知人がアトリエに来て、僕が描いている絵を見て「メキシコを想い出す」と言ったのです。僕の意識の中にメキシコのことなど何ひとつありませんでしたが、「メキシコ」と言われた途端、じゃ次回作は、メキシコを意識した絵を描いてみようと思って、メキシコを多少連想するような絵を描いてみました。

 そして、その絵を見た別の人が、「マカロニウエスタン」と言いました。その言葉を聞いて、今度はマカロニウエスタンを暗示するような絵を描いてみました。つまり人の話を食ったわけです。こうしてこの一連の絵は人の「話食い」を利用して、次々とまるで連歌のように反復してゆきました。紙芝居の絵が次から次へと変化して物語を作っていくことにも似ています。

「話食い」はこのようにして僕の思想になって行きます。この言葉の語源はどこから来たのか全くわかりません。もしこの言葉の源泉があって、僕の想像とは全く異なる意味を有していたとしても、僕は僕の解釈に従がってみようと思っています。

 でもこの言葉がどこで生じて、どこから僕の耳に入ってきたのかを知りたいという好奇心もちょっぴりあります。絶対、どこかに存在しているはずです。そしてその語源がわかったとしても僕は僕が決めたこの言葉の意味は通したいと思います。

 そこで、もしやと思ってネットで検索しました。その結果、どうも関西で俗語として使用されていたようです。やっぱり存在していたのです。人が話している時に割って入って、人の話を途中でパクッと食べるようにして自分のものにしてしまう、だから「食う」というらしいですが、僕の考えと似たりよったりですね。でも知識というのはこうして、人の言葉や経験をパクるわけですから、われわれが話している言葉は全て話食いだといってもいいんじゃないでしょうか。

「話食い癖」みたいな人がいて、どうも幼児性の強い人にその特性があるようです。そういわれると、僕の子供時代を指摘されているような気がしてきました。勉強嫌いだったので、本からの知識ではなく、人の言葉からの知識を「話食い」によって活用していたわけですから、結局「話食い」というのは自分のことだったわけです。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2024年2月8日号掲載

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