元祖おひとりさま、不良中年の星…79歳で孤独死した作家・永井荷風の生き方

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元祖おひとりさまのこだわり

 その「おひとりさま」であるが、「食」についても妙な法則があった。判で押したように定刻に店に現れ、決まった席に座るのが荷風流。他人が座っていると、空くまで柱に寄りかかって待っていたそうである。

「面白いことに、毎日1分たりとも遅れずに来るんですよ。まるで名人芸。自分のために席を取っておけという意味なんでしょうね」とは、ある女将の証言。

 暑い日だろうが寒い日だろうが、蕎麦は浅草の「尾張屋」でかしわ南蛮。どぜうの店「飯田屋」では柳川鍋とぬた、お銚子1本と決まっていた。10年通い続けた洋食店「アリゾナ」ではビーフシチュー。どの店もメニューは決まっていた。

 それにしても、晩年の荷風はなぜ同じ物に固執したのか。ひとり暮らしで、やっぱり寂しかったのか。なじみの街のいつもの店で、なじみのメニューを求めることで、どこか安心感を得たのではないか。

 日記「断腸亭日乗」を読むと、荷風は高級料亭よりも大衆食堂のようなとこばかり行っていたことが分かる。同じ東京出身でも関西に移住した谷崎潤一郎(1886~1965)が晩年、「牡丹鱧」という上品な鱧の吸い物を好んだのとは対照的である。

 荷風の経歴について少し触れておこう。

 1879(明治12)年、東京の小石川生まれ。エリート階級の家で生まれ育ったが、その環境に抵抗する。若いころから尺八や三味線を習い、文学にふけり、芝居や寄席、遊里にも隠れて出入りする。1908(明治41)年、遊学を終え、西欧から帰国。同年に「あめりか物語」、翌年に「ふらんす物語」を発表し、文名を高めた。

 大正期には「腕くらべ」、昭和初期は「つゆのあとさき」「ひかげの花」「墨東綺譚」など秀作を次々に発表。中でも37歳から79歳の死の前日まで書き続けた日記「断腸亭日乗」は、食事や家計も細かく記され、荷風のライフスタイルがよく分かる。古いものを次々に壊す性急な近代化や、戦争へと傾いていく風潮を痛烈に批判した。

 とまあ、こんな感じである。

不良中年の星

 それにしても、家庭や仕事、立場、役割、そんなものを全部放り出して自由に生きた荷風は「不良中年の星」と言ってもいいのではないか。

 2度結婚し、2度とも結婚生活は1年も持たず、離婚。1920(大正9)年5月、40歳のとき、プライバシーがないに等しい下町の暮らしに嫌気がさして築地から麻布に引っ越した。山の手の閑静なお屋敷町。万巻の蔵書に囲まれ、ひとり身の気楽さを享受したのである。

 そこは荷風にとって「隠れ家」だった。住居は2階建ての洋館。ペンキ塗りのため「偏奇館」と名付けた。「偏屈者」という意味もある。世間から身を隠し、表通りから離れたこの洋館を拠点に、「あわれな三文文士」を騙って、日が落ちてから玉の井など紅灯の巷をさまよった。

 1945(昭和20)年3月10日未明。空襲により東京は火の海に包まれ、偏奇館は炎上する。日記「断腸亭日乗」の描写。

「天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時に至りわが偏奇館焼亡す」

「日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり」

 当時、荷風は65歳。四半世紀住み慣れた家が燃えるのを、じっと観察した。

「隠れ家」を失い流浪の身になった荷風は、作家としての自分の生涯は終わったと覚悟したのだろう。余生としての「隠棲趣味」を堪能するのである。千葉・市川の郊外に移り住み、のどかな田園生活を送ったのは、その現れである。そこは決して特別な景勝地ではない。だが、戦災に遭わなかったために昔ながらの農村風景が広がっていた。穏やかに過ぎていく時間の中で、荷風は79歳の生涯を全うしたのである。

 次回は歌手の島倉千代子さん(1938~2013)。失明の危機、人気プロ野球選手との結婚と離婚、多額の借金の肩代わり、乳がん……と、まさに人生いろいろ。悲しみや喜びが落ち葉のように幾度となく降りかかってきたに違いない。けなげで可憐な乙女のようでもあった島倉さん。75歳の突然の旅立ちから11年になる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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