元祖おひとりさま、不良中年の星…79歳で孤独死した作家・永井荷風の生き方
朝日新聞編集委員の小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は作家の永井荷風(1879~1959)。37歳から死の前日まで書き続けた日記『断腸亭日乗』でも記されたその生き様は、「元祖おひとりさま」であり「不良中年の星」でもあると小泉さんは説きます。世のしがらみを排し、自由を貫いた文士の生き様に迫ります。
【写真を見る】浅草の踊り子たちと嬉しそうな顔で…世のしがらみを排して徹底して自由に生きた人生
6畳間で孤独死
この1年で5回、入院した。
重篤な病気を抱えているため仕方がないが、患者にとって大きな病院は「荒涼たる砂漠」のように思えてならないときがある。担当医は私の病気については詳しい。が、病気によって生じた心の悩みや傷、何よりも患者がどのような人生を歩んできたのかを誠意をもって見ようとはしない。
家族の面会もコロナ禍以降はまだNGだ。近代化されたビルディングの中で、患者はひとりぼっちで堅いベッドの上で過ごすのである。
とまあ、愚痴ばかりが続くが、あんな風な最期を迎えられたらいいなと脳裏に浮かぶ先達がいる。
1959(昭和34)年4月30日、胃潰瘍のため吐血し、千葉県市川市の自宅の6畳間で、79歳で孤独死した作家の永井荷風(本名・永井壮吉)である。
とにかく規格外の人だった。72歳で文化勲章を受章したあとも、東京・浅草のストリップ劇場に通い、夜ごと踊り子たちと遊んだ。浅草ロック座で自作の「渡り鳥いつ帰る」が上演されたときも、初日に通行人として舞台に立った。孤高の文士だった荷風に敬意を抱いていた人たちは、「荷風に何があったのか」と疑念を感じたに違いない。亡くなる前日も、いつも通り自宅近くの食堂に行き、カツ丼とお新香と日本酒1合を平らげた。
江戸情緒が残る東京の下町や場末の私娼窟を愛した荷風。本欄にも登場した「昭和のキャバレー王」こと福富太郎さん(1931~2018)は、荷風の命日にあたる4月30日には店を開放し、荷風が好んだビーフシチューに舌鼓を打ち、踊りや歌を鑑賞しながら夜を過ごすという「粋なイベント」を開いてきた。
巨万の富を築いたかに見えた福富さんにとっても、自らの老いを自覚しつつ不安を抱えながらも自分らしさを貫いた荷風は「心からの憧れの存在」だったらしい。
世のしがらみを排して自由を貫く
荷風が亡くなって今年で65年。そんな荷風的な生き方の何が現代人の共感を呼んでいるのか取材し、朝日新聞の東京版に連載したことがある。
その際にさまざまな人に会ったが、強烈な印象が残っているのが映画監督の新藤兼人さん(1912~2012)。こんなことを言っていた。
「荷風を色情文学の代表のように見なす人もいますが、世のしがらみを排して徹底して自由を貫いた。そこがすごい」(朝日新聞:2009年12月6日東京版)
岩波現代文庫から「『断腸亭日乗』を読む」を出した新藤さんは、確実に老いていく自分を冷静に自覚しながらも「自分らしさ」を貫いた荷風の生き方を高く評価した。
「高級官僚の裕福な家庭に生まれた荷風は、やがて米仏に渡航します。明治後期、日本が富国強兵へ進んでいった時代です。帰国後、彼は古いものを壊す性急な近代化や見せかけだけの権威、単なる物質的欲望を嫌悪しました」(同)
新藤さんは、浅草から隅田川を越えた場末の私娼街・玉の井を舞台にした小説「墨東綺譚」(1937[昭和12]年)に、荷風の真骨頂を見た。日中戦争が始まり、急速に社会が軍事色に染まっていった時代に「よくあそこまで書けた」と言うのである。そして新藤さんは、同作を1992(平成4)年に映画化している。
山の手のお屋敷街にあった自宅を空襲で焼失し、転々とした末、いとこ一家とともに千葉・市川に移住した荷風。繰り返すが、1959年4月29日、いつものように自宅近くの食堂で日本酒1合とカツ丼をたいらげ帰宅。翌朝、綿ぼこりが立つほど乱れていた6畳間でひとり息絶えているのを、お手伝いさんが発見した。
胃潰瘍による大量出血である。端から見ると悲惨な老い方、死に方だが、誰にも迷惑をかけずたったひとりで最期を迎えたのは本望だったのではないか。
それにしても、太宰治(1909~1948)のような華やかさはないが、荷風人気を分析すると、単身生活者として東京という大都会での生活を享受した生き方に、現代人は関心を寄せているのではないかと思われる。「元祖おひとりさま」である。
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