「30歳くらいの女の子に告白され、“幸せにできない”と断り…」 桐島聡容疑者、音楽バーに入り浸った逃亡生活の全容

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「不良でもスポーツマンでもなく…」

 桐島容疑者は亡くなる直前、自らの素性を明かした理由について「最期は本名で迎えたかった」と語ったそうだが、これは誰に向けてのことだったのか。

 藤沢市での暮らしぶりからは過激派に属していた片鱗はうかがえなかったが、そもそも彼はどこで道を踏み外したのか。明治学院大学に進学する前に通っていた、生まれ故郷にある広島県立尾道北高校のクラスメイトはこう語る。

「あの頃は政治的な話をするのが当たり前で、うちの高校でも先輩たちが授業をボイコットしたり先生を糾弾したりなんてことがありました。でも、桐島君はそういうタイプではなかった。隣の席になったこともあるけれど、政治的な話は全くしていませんでした」

 人となりについても、

「桐島君は不良でもスポーツマンでもなく、特に目立ったところのないタイプでした。だからといって暗かったわけでもない。むしろ気さくで、女の子にもちょっとした冗談が言えるごく普通の子でした。ボタンをかけ違えなければ、いいお父さんになっていたかも」

 上手ではなかったが、サッカー同好会に所属する活動的な一面もあったとか。

49年も逃亡できた理由

 だが、別の高校時代の同級生が言うには、

「桐島は自分が場をリードするのではなく、人の後にくっついていくタイプでした。だから、私の友人たちは、つい彼が過激派に引っ張りこまれてしまったのではないかと話していました。彼が同級生だったことで、事件発生時に就職活動の真っ最中だった私たちの中には、警察の取り調べに付き合わざるをえなくなり、迷惑を被った者も多い。名乗り出るのはいいけど、皆にわびてほしかった」

 前出の社会部記者は、なぜ49年間もの逃亡生活が可能になったのかに関して、

「中核派などの大規模な組織とは違って、東アジア反日武装戦線は非常に少人数でした。一連の事件後、ほどなくして組織は消滅したとみられています。桐島容疑者は組織的な支援がなかったことで逆に足どりがつかみにくくなり、雑踏に紛れていったのでしょう」

 いとも平和なこの国の片隅で、逃亡の身とは思えぬそれなりに充実した暮らしを送っていた桐島容疑者。若き日の彼が、大勢の人命を奪ってまで打倒したかった「日帝」とはいったい何だったのだろうか――。

週刊新潮 2024年2月8日号掲載

ワイド特集「そこが知りたい」より

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