袴田事件再審 法廷で公開された生々しい“恫喝取り調べ”音声の中身 肝心の「自白の瞬間」は無い謎
西嶋弁護団長の姿はなかった
熱気あふれる記者会見だったが、一抹の寂しさが漂った。車椅子に乗り酸素ボンベを携えて東京高裁や静岡地裁に通い続けた弁護団長の西嶋勝彦弁護士の姿がなかったのだ。数年前から間質性肺炎を患っていた西嶋弁護士は、1月7日に東京の自宅で倒れ、その後、病院で亡くなった。
以前、東京・お茶の水にある弁護士事務所で西嶋弁護士を取材したことがある。西嶋弁護士は眼鏡の上から上目遣いにこちらを睨み、取っつきにくい印象だったが、穏やかな話しぶりで安堵したものだ。
西嶋弁護士は14年3月の静岡地裁の村山浩昭裁判長の再審開始決定を振り返り、「再審開始は、ある程度、予想していたが、まさかすぐ釈放するとは思わなかったんだよ。慌てちゃったよ」と打ち明けた。「再審請求審で東京高裁が捏造に触れずに再審開始の決定文を書くことはできるのですか?」と訊くと、しばらく考えた後、「うーん。それは難しいなあ」と話した。その後、同高裁の大善文男裁判長は「捜査機関の捏造」を明記した開始決定をしたのだ。
袴田事件では、事件の発生時、父と不仲でたまたま家におらず、1人生き残った当時19歳の長女(故人)が絡んでいたとも噂される。その可能性を率直に問うと「それはないと思う。そして、真犯人を探すことは弁護団の仕事ではない」と話し、言葉を慎んだ。西嶋弁護士は余計なことはせず、与えられた仕事をしっかりやるだけという信念だったのだろう。
一昨年暮れ、本連載で筆者は西嶋弁護士に原稿の確認をお願いした。かなり日が経ったが返事がなく、特に問題はないのだろうと思い、そのまま配信した。ところが、西嶋弁護士から後日、「点検を頼んでおきながら先に配信するのは遺憾です」とメールが届き慌てた苦い思い出もある。
結審後、判決までの間にもう一度、インタビューして、裁判を総括していただくつもりだった。年明け早々のまさかの訃報に言葉もない。
「最初は怖かった」とひで子さん
福岡県生まれの西嶋弁護士は、中央大学を卒業後、今よりはるかに難関だった司法試験に合格、1965年に弁護士登録した。八海事件(51年)、徳島ラジオ商事件(53年)、島田事件(54年)などの著名な冤罪事件を手掛け、無罪に導いた。今流に言うと「無罪請負人」といったところか。袴田事件には第1次再審請求の90年頃から関わりはじめ、2004年から弁護団長を務める。
弁護団の記者会見では、西嶋弁護士ではなく主に小川弁護士が説明していた。小川弁護士が楽観的な見通しを語ると、西嶋弁護士が「まだまだ油断はできない」と引き締めた。村崎弁護士が「日本の裁判所は滅茶苦茶。憲法違反ですよ。新聞記者ならもっとちゃんと書いてくださいよ」などと話が長くなると、「もうその辺でいいだろう」と西嶋弁護士が諭していたのも今となっては懐かしい。
小川弁護士は「西嶋先生は雄弁ではなく固い印象でしたが、弁護団会議に支援者を参加させるなどしてくれた。その頃から温厚になった気がします。『もっと証拠捏造を強調すべきだ』とか、『警察の偽証罪も再審理由にしてゆくべきだ』とか、僕が突出した意見を出すと最初は先生に諫められたけど、最後には認めてくださった。弁護団会議で弁護士の意見がまとまらない時も、西嶋先生が『よしっ、それで行こう』と言うとまとまるんです」と振り返った。
葬儀で弔辞を読んだ「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は「毎年、年始に自作の一句をしたためた年賀状を送ってくださる。今年も届いたけど、出しそびれた私は、年始に会う時にお礼を言おうと思っていた。後悔しています。西嶋先生が一番嬉しそうだったのは、何といっても袴田さんが釈放された2014年の再審開始決定の時です。怖い印象だった先生が満面笑みでした。病躯を無理して頑張ってくださった」と感謝する。
そして「西嶋先生の声はドスが効いて野太い。最初は怖くて話しかけられませんでしたよ」と懐かしがった。
ひで子さんは「西嶋先生はすごく威厳があって、昔はあまり話もできなかった。でも、健康を害された頃からは性格が丸くなったのか、親しみやすくなりましたね。去年12月20日、再審裁判の待合室に一緒にいた時には、冗談を言い合って大笑いしたんですよ。まさか、それっきりになるなんて。せめてあと半年は生きていただいて、巖の無罪判決を見てほしかった。これだけは先生の運命かもしれないし、残念だけど、安心して旅立たれたと思います」と話した。
ひで子さんや山崎さんらに届いた西嶋弁護士の最後の年賀状の自作句を紹介しよう。
〈春が来る 袴田姉弟 雪冤だ〉
〈小春日に 駿河路通い 車椅子〉
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