母は「チビ太」とからかわれていたボクを救ってくれた…年上女性と何度も不倫を繰り返す45歳「マザコン夫」の原体験
母を喪って家庭は荒れ…
彼が中学に入ったばかりのころ、母が倒れた。おそらく末期ガンだったのだろうと彼は言う。当時は病名さえ教えてもらっていなかった。ただ、母が入院した日の夜、夜中に目を覚ますと父がリビングで泣いていたので、これから恐ろしいことが起こるのだと彼は思わざるを得なかった。
「父は母の余命を知っていたんでしょう。3ヶ月と言われたそうです。2ヶ月たったころ、外泊が許されて母が戻ってきたんですが、痩せていました。それでも母は『ごめんね。何もしてあげられなくて。元気になるから』と気丈に振る舞っていた。父は母と1時間だけドライブしてくると車で出かけて行きました。ふたりだけの思い出をたどったんでしょう。2泊ほど家で過ごしたけど、それ以上は無理だった。病院に帰って2週間後に亡くなりました。僕は学校から病院に行って毎日、母と過ごしました。母は『いい子にならなくていい、自分で考えて自分で行動できる大人になって』とたびたび言っていましたね」
母が亡くなると、とたんに家の中がおかしくなった。父は会社に行ったり行かなかったりと生活が荒れた。彼は弟のめんどうを見ながら学校に通ったが、家に帰るのが嫌になって悪い仲間とつるむようになった。それでも父は気づかない。
「父の妹である叔母が来てくれたりしましたが、父は一向に立ち直る気配がなかった。叔母は『慎ちゃんたちはうちにおいで』と言ってくれたんですが、僕は母と過ごした家を去りたくなかった。親戚が集まってくれて父とも話し合い、父も息子たちのためにがんばると言ったのに、その1週間後、父は行方をくらましました。結局、僕は叔母のところへ、弟は母方の親戚に預けられることになった。母がいなくなったために家庭は壊れました。父がもうちょっとしっかりしてくれていたら、なんとか男3人で暮らせたと今は思いますけどね」
彼の心の中では、成長するにつれて母が美化されていった。完璧なわけではない、そそっかしいところもあったしいいかげんなところもあった。それでも母は美化され続けた。
「もちろんそれは恋愛観にも影響がありました。冷静に考えればわかっているんです。母のような人がいるわけがない。同じ人なんていないのだから。だけど僕は女性の中に母を見て、母を探してしまう。一生懸命関係を築いて、本当に好きだと思っても、何か違うと少しでも思うともうつきあっていられない。若いころはその連続でした」
妻は“邪魔にならない女性”
社会人になって8年たち、世話になった叔母が「そろそろ身を固めたら?」と見合い話を持ってきてくれた。叔母には逆らえなかった慎吾さんは、写真も見ずに「いいよ」と応じた。実際会ってみると穏やかそうな、「ごく普通の女性」だったから、そのまま彼は結婚を決めた。
「結婚は社会を生き抜いていくための手段だと思っていました。家庭があったほうが信頼されやすい面もあるし、実際、勤務先でもそろそろ家庭を持ってもいいんじゃないかと言われていたし。今の時代だったらアウトな発言ですが、そのころはまだ上司が部下にそんなことを言っていたんですよ」
見合いから半年後には、3歳年下の陽子さんと結婚式を挙げた。あちこちに借金をして中古とはいえ築浅のマンションを購入した。結婚するなら、妻の要望をかなえて過ごしやすい家庭にしたい。そんな思いからだった。
「こういう言い方をしたら非難されると思うんですが、陽子は本当に“邪魔にならない女性”なんです。そういう視点で見たらいけないのもわかっているけど、家庭を築くならそういう女性がよかった。だから僕にとって彼女は理想的な妻でした」
妻はどう思っているのだろう。彼の言い方が釈然とはしないが、それもわかっていてあえてそういう言い方をするのが彼の特徴なのだと、私は少しずつ理解していた。
「結婚して3年目に息子が生まれました。生まれた前後に僕は恋をしていた。それが結婚後、最初の恋でした。相手は5歳年上。短いつきあいだったけど、彼女の優しさ、おおらかさは僕を救ってくれたような気がします。その3年後、今度は長女が生まれて、その前後でまた恋をしていたんです。今度は7歳年上でした……。これもまたマザコンの表れなんだと思います」
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