オカダ・カズチカが新日を退団 エースとして12年間背負ったものは何か

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テレビゲームからプロレスラーを目指す

 1987年、愛知県で生まれたオカダは、5歳上の兄がいたこともあり、奔放に育てられたという。それが自立心をより育んだのか、幼少期から何事も全て自分で決め、おこなう少年だった。決まった時間に起床し、着替え、食事をし、時間になると幼稚園に向かった。家族が驚かされたのが小学5年生の時。母の実家がある長崎県の五島列島に住みたいと、その時通っていた愛知の小学校の校長を通じて懇願したのだ。風光明媚な五島列島が気に入ったというシンプルな理由だったが、結局、転校し、小学校卒業まではそちらで祖父母と共に過ごした。

 中学進学とともに愛知の自宅に戻ったのは2000年だった。何とテレビゲームを通じてプロレスと出会ったそうだ。

 ゲームの次に実際の試合を観て更にはまり、「どうしてもこの世界に行きたい」と、中学卒業とともに、全寮制のレスラー養成機関「闘龍門」に入学。両親は驚いたが、自主性に富んだオカダの希望を尊重し、反対はしなかった。それでも、家族会議での以下のやり取りを聞くと、さすがに母親は心配を隠せなかったようだ。

〈「カズくん。お母さん、プロレスのこと、よくわからないけど、死んじゃうこともある世界なんだよ」
 若干15歳の、オカダの返答は、明確だった。
「それはもう、覚悟してる」〉(『プロレスラー夜明け前』スタンダーズ刊より〉

 だからこそ、「闘龍門」入学後、余りにも厳しい練習に「もう辞めたい」とオカダが(おそらく初めて)泣き言をメールした際の、母親からの返信も、何とも重い。

〈『もう少しだけ、頑張ってみたら?』
 以降、弱音のメールは届かなくなった〉(同)

 同校を卒業し、2007年、新日本プロレスにスカウトされ入団したオカダにチャンスが巡って来たのは、先にも挙げた2012年1月の凱旋帰国からだった。自らを“レインメーカー”と称し、それまでのイメージをチェンジ。レインメーカーとは、巨匠・フランシス・フォード・コッポラ監督の同名映画からの借用で、「お金の雨を降らせる」ほどの敏腕弁護士の愛称なのだが(※後に自らの技にも同名を付けた)、日本で流行ったわけでもないし、何とも唐突な異名ではあった。当時のIWGPヘビー級王者である棚橋弘至にリング上で挑戦を表明すると、客席からはブーイングが飛んだものだ。

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