オカダ・カズチカが新日を退団 エースとして12年間背負ったものは何か
新日本プロレスの「エース」とは
オカダ・カズチカが、1月末を持って新日本プロレスを退団した。以降、2月24日まではフリーとして同団体に参戦し、その後は海外での活躍が有力視されている。
【写真で見る】デビュー間もない頃から、棚橋への挑戦、必殺技の名場面など
オカダの実績は言わずもがなだろう。2012年1月の凱旋帰国から今までの12年間で、団体の至宝、IWGPヘビー級王座は、新装された同世界ヘビー級王座含め7度獲得。毎年「東京スポーツ」主催で制定されるプロレス大賞MVPは計5回、これに劣らぬ栄誉である年間最高試合(ベストバウト)賞は、なんと9回も獲っている。忌憚なき言い方をすれば、彼こそ新日本プロレスのみならず、現行の日本プロレス界を代表するエースであった。
2015年6月のことだ。新日本プロレスの主力選手たちに、「エース」をテーマにインタビューしたことがあった。当時、プロレス好きな女性、いわゆる“プ女子”がトレンドワードになるなど、新日本プロレス人気が復活している時期でもあった。
「エースとは、全てを背負える人間のこと」(棚橋弘至)
など含蓄ある所見も上がる中、オカダ・カズチカの返答は出色だった。
「エース? 今まで、いなかったんじゃないですか? いたら、新日本プロレスは一時的にでも業績は悪くなってないんじゃないですか? だから、いなかったんじゃないですか?」
(僕が登場するまでは)という言葉を隠しているような厚顔さも洒落っ気もなく、ただ冷静に答える姿が印象的だった。そのオカダが今後、海外にまで求めて行くものは何なのか?
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そもそも新日本プロレスのエースと言えば、言わずと知れたアントニオ猪木である。1986年、当時はUWF所属だった前田日明との一騎打ちが一旦は組まれたが、幻に終わったことがあった(※イルミネーション・マッチに変更)。試合を組んでいた新日本プロレスの要人に、後に聞いたことがある。
「もしあの時、猪木と前田が一騎打ちしたとして、結果はどうなってましたかね?」
「どうあろうが、猪木さんの惨敗はないでしょ。前田が勝とうが、地方に行ったら前田なんて誰も知らないよ。猪木さんほど全国津々浦々、知られるレスラーはいないんだから」
興行会社としての論理だが、そうすると困ったことになる。猪木以上のレスラーがいるはずがないので、これでは猪木だけが永遠のエースということになってしまう。
この問題は1989年、猪木が参議院議員に当選し、以降リングにはスポット参戦に留めたことで回避された。1990年代は武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“闘魂三銃士”に、藤波辰爾や長州力を絡めた複数エース体制に。2000年代は後続の中西学、永田裕志らの“第三世代”が担うことになったが、これについては蝶野のインタビューによる回顧が趣深い。
「“闘魂三銃士”とひとくくりにされたのは良かった。何故って、例えば俺個人が何となく調子が悪くても、他の2人のどちらかがエースにいれば、自然とその時期、挑戦者や好敵手として扱ってくれる部分があったから。武藤さんや橋本も同じ気持ちだったと思うよ。ある意味、認め合って、協力してトップを守ってたんだな。だから俺、第三世代については、道場に集めて怒ったことがあったんです。あいつらは、同期の足を引っ張ることしか考えてなかったから。『何で皆で一緒に上がって行こうとしないんだ? 仲間が上に行ってその足を引っ張ったら、自分も落ちるだけだぞ!』って」
加えて、こうも意味深長に語ってくれた。
「俺らの失敗は、どう考えても武藤さんが長男、俺が次男、橋本が三男のはずなのに、いつの間にか橋本が自分を長男だと思ってしまったこと」
複数エース体制から来る自信と弊害か、橋本は2000年、新日本を解雇される形で飛び出すと翌01年、自らの新団体を発進。さらにその翌02年には、武藤が全日本プロレスに移籍し同年秋にはその社長に。長州も新日本プロレスを離れ03年、新団体を旗揚げする。05年には新日本プロレスがユークスに身売り。奮闘する第3世代や新鋭の棚橋や中邑を中心にリングは展開されたが、売り上げは横這いが続いた。
オカダ・カズチカがプロレスを知ったのは、まさにそんな新日本プロレスの激動期の始まりである、2000年のことだった。
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