1日で富士山を4往復! 世界一の山岳ランナー・上田瑠偉が高校で経験した挫折を振り返る(小林信也)
山岳コースを走る“トレイル・ランニング”が世界的に人気を広げている。登山道や林道を走ってタイムを競う。100キロ以上の超長距離レースも珍しくない。
国内で最も権威があるとされるのは「日本山岳耐久レース~長谷川恒男CUP」。通称ハセツネカップだ。総距離71.5キロ、累積標高差4582メートル。御岳神社、金比羅尾根など、東京・奥多摩山域を走るコースは世界的にも過酷な部類といわれる。この22回大会(2014年)で従来の記録を18分も短縮する7時間01分13秒で優勝したのが21歳の上田瑠偉だった。上田はその後、16年にはU23世界選手権で優勝。世界最高峰のトレランレース「ウルトラトレイル・デュ・モンブラン」のCCC(101キロ部門)でも準優勝。19年には「スカイランナー・ワールド・シリーズ」でアジア人初の年間王者に輝くなど世界のトップランナーとなった。
上田は1993年10月、長野県大町市で生まれた。瑠偉の名はサッカー好きの父親がラモス瑠偉にあやかって付けた。小中学生の頃は父がコーチを務めるサッカークラブに所属。だが、注目を浴びたのは陸上競技でだった。中3の冬、天皇杯全国都道府県対抗男子駅伝に長野県代表で出場。中学生区間(3キロ)を走り、優勝の一翼を担った。直後に地元の名門・佐久長聖高に進学した。ここからの3年間は、苦難の日々が待っていた。入学すると、3年生に大迫傑がいた。
「ちょうど駅伝部の寮ができた時でした。大迫さんは、その寮に真っ先に入って下駄箱の1番を押さえ、練習後はいちばんに食堂に行き、いちばんにお風呂に入る。とことん1番にこだわる先輩の姿に刺激を受けました」
土、岩場、砂地…
だが、憧れの先輩のようには活躍できなかった。
「ケガで思うように走れませんでした。治りかけるとまたケガをする。そんな高校3年間でした」
結局、駅伝を走ることはできなかった。何かチームの役に立ちたいと、上田は控え選手ながら主将を務めた。学業成績はクラスで1番。大迫の後を追うように早稲田大に入学。だが、競走部には入らなかった。
「同好会で自由に走りたいと思ったんです」
その選択をした18歳の時点で、「上田の競技人生は終わった」と周囲は思っただろう。上田自身もそうだ。ところが、秘めた才能が、本人の意思と無関係に上田を新たな世界に誘った。
「10代最後の記念にと思って同好会の仲間と走った『柴又100K~東京↔埼玉↔茨城への道~』で5位に入ったら、コロンビアスポーツウェアの人に誘われたんです。それがきっかけでトレイル・ランニングを始めました」
レース後、スポンサー契約のオファーを受けた。13年、大学2年の夏だった。
「トレイル・ランニングは、アスファルトの上を走るマラソンと違って路面は土、岩場、砂地などさまざまです。気象条件も高度によって激しく変わる。常にあらゆる状況を感じて先を読む力が大切です。それが僕に合っていたのかもしれません」
マラソンよりはるかに厳しいコース。走力、体力に加えて鋭敏な感知力、判断力が勝負を分ける。
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