「ホッピーは演歌が似合う酒」…作曲家・船村徹はなぜ「演歌巡礼」の旅に出たのか

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ヒットしなかった曲を供養する

 蝶ネクタイをして居住まいを正した音楽家のように振る舞わないのも、船村さんの矜持だった。「先生、こんなことまでしないでください」。旅先でファンから泣きつかれたこともあったというが、「演歌は日本固有の風土から生まれた民衆のうめき」が持論だけに、地方巡業はやめなかった。

 栃木県船生(ふにゅう)村(現・塩谷町)生まれ。ペンネーム「船村」に望郷の念がこもる。「徹」は音楽に徹する思いに由来する。

 ここで船村さんの兄について少し触れておきたい。12歳上の兄は陸軍士官学校出身。戦地に赴く直前、ハーモニカで「ドリゴのセレナーデ」を吹いてもらった。指揮官として乗り込んだ輸送船でニューギニアへ向かう途中、ミンダナオ付近で戦死した。その兄の無念の思いを胸に、船村さんは音楽を学んだのである。

 それにしても、最初のヒット曲となった「別れの一本杉」(春日八郎)は1955年の作品である。戦争の傷痕も薄れ、復興へ向けて東京が元気だった時代。ビルや工場が続々と建つ大都市に、仕事を求めて地方から多くの人たちが集まってきた。「別れの一本杉」は、田舎から東京に出てきた男が、故郷に残した恋人をしのぶ歌である。「東京よ、このままでいいのか」「地方を切り捨てていいのか」と船村さん自身が抱いていた問題意識が垣間見える作品と言ってもいいだろう。

 振り返ると「やはり船村さんは船村さんだなあ」と思ったことの一つに「歌供養」があった。六十数年の作曲家人生で手がけた作品は5500曲を超えるが、ヒットすることなく忘れられてしまった歌もある。そんな歌への感謝の思いを込めて、毎年、営んでいた式典が「歌供養」だった。祭壇に譜面やレコード、CDなどを備え、僧侶が経を唱えた。

「こっち側に残っている人間が供養しないと、あの子たちも浮かばれないと思うんです」

 いつだったか、船村さんは私にこう言っていた。

 2016年11月。作曲家としては山田耕筰(1886~1965)以来、60年ぶり2人目となる文化勲章を受章した。記者会見で「この勲章は(亡くなった)先輩方の“忘れ物”。私はそれを拾って、あちら側にお届けする役」と謙遜した。市井に生きる人たちに寄り添い、生涯現役を貫いた船村さんらしい言葉だった。

 この会見の3カ月後。船村さんは静かに旅立った。84歳。もっともっと話をうかがいたかった。「生まれ変わったときも弟子であり続けたい」と北島三郎さん。「生涯、おやじと一緒に歌っていきます」と鳥羽一郎さん。船村演歌を愛弟子たちが歌い続ける。

 次回は江戸情緒が残る東京の玉の井や深川を描いた作家・永井荷風(1879~1959)。1959年4月、79歳で亡くなる前日も、自宅近くの食堂で銚子1本を注文し、濃厚な味を堪能した。放縦な暮らしぶりながら老いても最期まで自分らしさを貫いた荷風。憧れの先達の最期に迫る。

小泉信一
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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