ニューヨーク・タイムズ紙の「今年行くべき場所」 日本人が知らない山口市の歴史と文化のすごい中身
市内各地に残る「大内文化」の遺構とおもかげ
しかし、公家のような生活を送って国情を顧みなくなった16代当主・大内義隆は、天文20年(1551)9月、家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反によって自害させられてしまいます。以後、「西の京」は急速にすたれますが、この「大内文化」のおもかげは、いまも山口市内に色濃く残されています。
たとえば、鴨川に見立てられた一の坂川はいまも清流で、初夏にはゲンジボタルが舞います。大内弘世は宇治からゲンジボタルを取り寄せて一の坂川に放したそうで、そのホタルが土着していまも生息しているといわれているのです。大内時代の建物でいちばん有名なのは、日本三名塔のひとつに数えられている国宝の瑠璃光寺五重塔でしょう。大内弘世の嫡子、義弘の菩提を弔うために嘉吉2年(1442)ごろに建てられたもので、大内文化の最高傑作とされています(残念ながら現在、令和の大改修中ですが)。
大内氏の館跡には、毛利隆元がかつて主君だった大内義隆の菩提を弔うために再興した龍福寺があります。明治時代に禅堂と山門を残して焼失しますが、その後、大内氏の氏寺だった興隆寺の本堂が移築され、往時と同じ檜皮葺きの屋根が再現されて、大内文化の香りを漂わせています。
ほかにも、大内弘世が京都の北野天神を勧請した古熊神社や、祇園社を勧請した八坂神社、14代当主・大内政弘 が山口の鎮守と定めた今八幡宮、義弘の息子・大内持盛の菩提寺だった洞春寺などに、大内文化華やかしころをいまに伝える重要文化財の建築が残っています。
また、常栄寺庭園も大内文化を代表する遺構です。大内政弘が雪舟につくらせたと伝えられ、国の史跡および名勝に指定されています。雪舟の水墨画の世界が立体的に表現されています。
高いビルが少ない地域の個性が守られた都市
大内氏の滅亡後も、毛利氏の支配のもと、山口には周防と長門(同北西部)を管轄する山口奉行が置かれ、この地域の政治的中心のままでした。しかし、江戸時代になると状況が変わります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、領土を周防と長門の2国に縮小された毛利氏が、居城を萩(山口県萩市)に構えたからです。このため、山口は萩と三田尻(防府市)を結ぶ中継地として一定程度は繁栄しながらも、中核都市ではなくなります。
山口がふたたび表舞台に登場したのは幕末です。萩は海に面しているため、外国船から艦砲射撃をされたらひとたまりもありません。そこで長州藩は、内陸に位置して、領内全体の統制をとるのにも適している山口へと、藩庁を移転することを検討しはじめ、実際、文久3年(1863)に移されました。
移転先の山口城は山口政事堂とも呼ばれ、長州藩による討幕運動の中心地になりました。明治になって廃藩置県が断行されると、そこがそのまま山口県庁とされ、今日まで県政の中心地になっています。そしていまも、山口城の正門だった薬医門と水堀の一部が残され、維新の志士たちの活躍を思い浮かべることができます。
公家気取りだった大内氏と、倒幕に情熱を燃やした長州藩の下級武士たちでは、まるで水と油で相いれない気もしますが、両方の歴史が交わっているのが山口のおもしろさだともいえるでしょう。また、山口は日本の都市、それも県庁所在地にしては珍しく、高い建物が少ないのも特徴です。
発展イコール再開発や高層ビルの建築だという勘違いのもと、せっかくの個性や味わいを否定し、破壊し、台無しにしてしまった地方都市が多いのが日本です。歴史的な趣を地域の誇りとして維持しているヨーロッパの地方都市などとくらべると、嘆かわしいかぎりですが、幸い山口には、文化の香りが維持され、それを台無しにする高層のビルもあまりありません。
ニューヨーク・タイムズ紙が「2024年に行くべき」としたのは、そんな町の守り方も評価してのことかもしれませんね。