ニューヨーク・タイムズ紙の「今年行くべき場所」 日本人が知らない山口市の歴史と文化のすごい中身
「2024年に行くべき52カ所」。その3番目に選ばれたのは、山口県山口市でした。国内の観光地ランキングではありません。選んだのはアメリカの有力紙ニューヨーク・タイムズで、選ばれたのは日本でただひとつ山口市だけなのです。
昨年は盛岡市を選んだ同紙は、山口市の文化的魅力とともに、「観光公害に悩まされることが少ないコンパクトな都市」であることを評価しています。もしかすると、観光地としては必ずしも有名でない山口という名に、ピンと来ない方もいるかもしれません。しかし、知ってみれば、だれでも行ってみたいと思うような歴史と文化に彩られている都市です。そこで、山口市の歴史と文化とその魅力を、駆け足で紹介しましょう。
荒廃した京都以上に栄えた「西の京」
山口市はスペインのフランス国境に近いナバラ州のパンプローナ市と、姉妹都市の関係にあります。この市は日本にキリスト教を伝えた宣教師、かのフランシスコ・ザビエルの生まれ故郷で、山口市との関係は、ザビエルが山口を訪れたことにさかのぼります。天文18年(1549)8月、現在の鹿児島市に来着したザビエルが、日本でもっとも深くかかわった都市が、ほかならぬ山口だったのです。だから現在、イタリア人の設計によるザビエル記念聖堂も建っています。
ザビエルの目標は京都に赴き、天皇から全国への布教許可を得ることでした。そこで薩摩(鹿児島県西部)に滞在後、京都をめざしますが、その前に平戸(長崎県平戸市)を経由して、天文19年(1550)11月に山口へ入り、布教をはじめました。
ただ、このときザビエルらは、周防(山口県東南部)の守護大名だった大内義隆に謁見したものの、うまくいかずに追い払われ、失意のまま京都に向かいました。そして、京都では天皇との謁見を果たせず、平戸を経て天文20年(1551)4月、山口へと戻ります。
ふたたび大内義隆に謁見すると、今度は時計やオルゴールをはじめとする数々の珍しい献上品が功を奏したようで、義隆は布教を許可し、廃寺になっていた大道寺をザビエルに与えます。この大道寺は日本ではじめての教会となりました。また、ザビエルが去ったのちの天文21年(1552)12月9日(太陽暦の12月24日)、宣教師のコスメ・デ・トルレスがザビエルの意を汲んで開催した降誕祭は、日本ではじめて祝われたクリスマスだといわれています。
こうしてザビエルが山口に滞在し、京都がだめならここで、と布教に精力を注いだのは、当時の山口が「西の京」と呼ばれるほどの文化都市だったからです。その隆盛は、南北朝時代の延文5年(1360)ごろ、大内弘世が本拠地を現在の山口市中心部に移したことにはじまります。山口はちょうど京都によく似た盆地だったので、京都かぶれの弘世は本拠地に選んだようです。
弘世は盆地の中央に、京都室町の足利将軍邸を模した居館をもうけました。そして、町も京都のように縦横に区画し、盆地の中央を流れる一の坂川を鴨川に見立てました。さらには、祇園社(現・八坂神社)や北野天神まで京都から勧進したのです。
大内氏はこの山口を拠点に、朝鮮王朝はもとより明国、琉球王国とも活発に通交したので、山口はザビエルが訪れる以前から国際色が豊かでした。経済的基盤も全国随一で、公家や文化人が何人も招聘され、連歌師の宗祇や画家の雪舟はその代表です。こうして京都の北山文化と東山文化、および大陸文化が融合した山口は、応仁元年(1467)にはじまった応仁・文明の乱で荒れた京都をしのぐ、日本一の文化都市の様相を呈していたのです。
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