二階堂ふみ「方言禁止」を差別だと糾弾する意見が波紋 百田尚樹氏は「なにかにつけ差別という風潮」に違和感
沖縄差別という批判
1月18日に放送された「櫻井・有吉THE夜会」(TBS系)で、女優、二階堂ふみに「方言禁止」というルールで記者会見をさせるという趣向のコーナーを放送したところ、「沖縄差別」につながるという批判が一部で起きることとなった。
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特に騒動が大きくなった背景には、脳科学者の茂木健一郎氏がX上で批判したことも関係している。
茂木氏の主張は、まとめると以下のようなことだ。
「沖縄では国家に方言を禁止された歴史がある。差別を受けてきた。この経緯を考えれば、番組の趣向は一発アウト。沖縄に限らず、方言をこのように扱うことは現代の価値観から考えても許されない。番組の関係者にはリテラシーが足りない」
さらに、こういう番組を見て「笑っている人たち」も理解できない、と茂木氏は厳しく批判し、さらに「日本のお笑い」のあり方も「質が低い」と断じている。グローバルな基準に追い付いていないという。これらは日本の「地上波テレビ」のレベルの低さを示している、というのが茂木氏の見解だ。
ただ、こうした批判がどこまで多くの共感を得ているのかは微妙なところだ。
この「炎上騒動」を取り上げたネットニュースに寄せられたコメントを見る限りでは、「問題ない」「気にし過ぎ」という声のほうが多い。もちろんその反応自体が、茂木氏から見れば視聴者や国民の「質の低さ」の表れだとなるのかもしれない。
悪気のない言動が相手を傷つけること、時に差別につながることもあるのは間違いない。そうした振る舞いをなくしていくことは大切だろう。
ただ一方で、あらゆることを「差別だ」と批判する風潮に違和感を持つ方も多い。「問題ない」というコメントの多さは、それを示しているようだ。
作家の百田尚樹氏もまた、近年、さまざまな場面で「差別だ」という声が大きくなることを懸念している一人である。新著『大常識』には、現代の「差別」にまつわる複雑な状況について考察したコラムが複数収録されている。
その主張は、ある種の人にとっては不愉快なものかもしれないが、一方で何らかの息苦しさを感じている人は共感するところが多いのではないか。以下、抜粋してご紹介してみよう。
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(1)あだ名は差別のもとなのか
クラスメイトを呼び捨てやあだ名で呼ばず、「さん」付けで呼ぶよう指導する小学校が増えているというニュースが2022年5月にありました。その理由が身体的特徴を揶揄するようなあだ名はいじめにつながるケースがあるからだと聞いて考えさせられました。たしかに太った子に「ブタ」、眉毛の濃い子に「ゲジゲジ」、鼻の低い子に「平面ちゃん」は本人が傷つくかもしれません。しかし、足の速い子が「チーター」、料理の得意な子が「シェフ」など呼ばれてうれしいあだ名もあります。肝心なのは「他人の嫌がることをしてはいけない」と教えることで、その可能性があるから「一律禁止にしてしまえ」は怠慢以外のなにものでもありません。
わたしの年齢になると学生時代は遠い昔。同窓会に行ってもどこの誰だったかわからない人が多くなりました。しかし、名前は忘れてもあだ名は覚えているもので、それをきっかけに思い出し瞬時にその時代に戻ることができます。そんなあだ名がダメだなんて、今の子供たちが思い出さえも作らせてもらえないとしたら不憫でなりません。もっとも、子供のことですからそんな心配をよそに、いかに禁止したところで先生の見ていないところでは平気であだ名で呼び合うのかもしれませんが。
「さん」付けで呼ぶことを推奨しているのは学校だけではありません。社長、部長、課長など役職で呼ぶことが当たり前だった会社でも最近は「さん」付けに変えているところが増えているようです。その理由を役職で呼ぶことにより権威がちらつき、考えていることを率直に言えなくて風通しが悪くなる、これからの時代、閉塞感のある会社は生き残れないからとしています。一見もっともらしい理由ですが、そこまで言うなら役職そのものを廃止すればいいものを、それはそのまま残し呼ぶときだけ「さん」付けにすることでどこまで効果があるのでしょうか。
友人の会社でも社長が自ら
「うちの会社もなんでも言えるよう役職呼びをやめて『さん』付けにする。もちろん私のことも社長とは呼ばないでくれ」
と宣言したそうです。
それに対して友人は「さすがに社長は社長でいいんじゃないですか」と言ったところ、「うるさい、ごちゃごちゃ言うな、わしが決めたことや」と頭ごなしに怒られたそうです。
「何が風通しや、呼び方を変える前に自身の性格を変えろ」。友人の嘆きがむなしく響きました。
(2)個人情報過剰配慮社会を憂う
子供の保育園入園時の書類で血液型を書く欄があったが、その時点で子供の血液型を知らなくて困ったという母親の記事が、2022年10月にありました。
保育園ということはこの子はまだ3歳か4歳、あるいはもっと幼い可能性もあります。そんな子からの採血は容易ではありません。母親は保育園に「どうしても記入しなければなりませんか」と確認したところ「できれば……」との返答だったそうです。保育園側としてはいざという時のためにとの考えだったようですが、「いざ」とはどういう時でしょう。それは輸血が必要な時にほかなりません。しかし「大急ぎで輸血をお願いします。この子はA型です」といったところで医療機関が「はい、わかりました」と即座に輸血を開始することはありません。
万一間違っていたら取り返しがつきませんから必ずその場で試薬を使った血液型の確認をします。ですから事前に血液型を知っていようがいまいが輸血にはなんら影響しないのです。血液検査がなくなり困るのは「血液型占いの易者」、反対に胸をなでおろすのは浮気妻だけです。
わたしが子供の頃の書類にはいまでは考えられない記入欄が多くありました。本人はもちろん、親兄弟の名前に生年月日や血液型、勤め先の電話番号、緊急用として親戚の連絡先、そのうえ親の出身校を書く欄まであったのですから個人情報も何もあったものではありません。
それに対し現在のあらゆる書類はいたってシンプルなものです。住民票の続柄欄は婚外子を差別してはいけないと長女・長男・二女・二男・養子という区別をやめてすべて「子」に統一されています。また、男女差別はいけないといって進学や就職の際の願書からは男女欄が消えています。以前のように名前から容易に性別がわかればいいのですが、男女どころか国籍さえわからないキラキラネームでどうやって選別しているのか不思議です。選考の過程で当然すべてはわかり合格不合格が決まるのですから、その効果がどれほどあるのかは疑問です。
差別が良くないのは言うまでもありませんが、なにかにつけ「差別だ」と叫ぶのはいかがなものでしょう。そのために本来しなければならない“区別”さえできないのはあまりにも不合理なことです。
(3)女性専用車両の根本的な矛盾
2023年1月18日、東京都営地下鉄大江戸線で「女性専用車」の運用が始まりました。都営地下鉄では2005年の新宿線に続く2路線目だそうです。首都圏や近畿圏など人口過密地域の列車には、当たり前のように「女性専用車」が設けられています。この車両はラッシュ時における満員電車内での痴漢行為を防ごうと始まったもので、その起源は1912年(明治45年)1月31日に当時の東京府の中央線で朝夕の通勤・通学ラッシュ時間帯に登場した「婦人専用電車」だとされています。
卑劣な痴漢からか弱い女性を守る「女性専用車」の存在に異論はありませんが、初登場してから110年で社会状況は大きく変化しました。なによりも女性の社会的地位が向上し、あらゆる場面で男性と差をつけることが禁じられています。時代が変わろうと男は男、女は女と考えるわたしは「生物学的に体力で劣る女性は男性に守られて然るべきだ」と思うのですが、そんなこと言おうものなら「女性蔑視だ」と叱られかねません。「劣る」「弱い」「低い」などのネガティブな言葉は、その本意がどこにあろうと「差別」に結び付けられてしまうのです。そんな“平等主義”の現代に女性限定の「女性専用車」とは。
毎日ラッシュ時に通勤している友人は、空席の目立つ「女性専用車」を横目に、いつも満員の一般車両に立っているとこぼします。彼は「男性専用車」がないのは差別だといいますが、元が男が原因の痴漢対策だけにあまり説得力はありません。しかし、よく考えてみれば痴漢が狙うのは女性だけではなく、男性が好きな痴漢もいます。さらに“見た目”で決めつけてはいけないLGBTの人々の権利も認めなければなりません。今後「女性専用車」は“心身共に女性”“身体は女性だが心は男性の座りたい人”“身体は男性だが心は女性”“男が怖いか弱い男性”で満員になるかもしれません。
ちなみに鉄道会社の見解は自身が女性だと認識していれば「女性専用車」へ乗車できるそうです。
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昔は「常識」だったことも今では「非常識」とされることは珍しくない。「セーフ」が「アウト」に変わるのだ。ところが、「アウト」が「セーフ」となるケースのほうは少ない。
それゆえに社会から寛容さが失われていると感じる人もいることだろう。
百田氏の唱える「大いなる常識」はどのように受け止められるだろうか。