短歌の世界を二分したライバル対決の「意外な真相」とは? 「抒情派・西行」vs.「構成派・藤原定家」

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 西行といえば、『新古今和歌集』に最多の94首が選入された天才歌人。一方、藤原定家はその『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者を務めた中世歌壇の大立者。

 二人の「歌風」や「生き方」の違いから、両者はライバル関係にあったとする説もあるが、実際のところはどうだったのか。

 西行歌集研究の第一人者で、慶應義塾大学名誉教授の寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)から一部を再編集して、二人の天才の意外な関係をお届けする。

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後鳥羽上皇の対照的な評価

 西行と定家は、40歳余りの年齢の差はあったが、ほぼ同時代を生きた歌人である。ただ両者の歌風や生き方はかなり違っており、従来両者は比較して論じられることが多かった。
 
 すなわち人生派、抒情派としての西行と、構成派、唯美派の定家という対比である。『後鳥羽院御口伝』で、後鳥羽院が、西行に対して

「西行は歌の趣向を凝らしていて、しかも心も殊に深く、このような歌がめったに詠まれない点も、兼ねそなえているようにみえる。天性の歌人と思われる。普通の人が真似などできる歌ではない。口では説明できないほどの名手である」

 と述べ、一方定家については

「定家は論外な者である。あれほどすぐれた歌人であった父の歌でさえも、軽々しく思っていた上に、ましてそれ以外の人の歌は、問題にもしない」

 と評したことも、両者を対立的に見る見方に拍車をかけた。

「花も紅葉もなかりけり」の美学

 現代でも小林秀雄は、定家の「見渡せば花も紅葉(もみぢ)もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」の歌を評して、「外見はどうあらうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。『新古今集』で、この二つの歌が肩を並べてゐるのを見ると、詩人の傍で、美食家があゝでもないかうでもないと言つてゐる様に見える」(『無常といふ事』)と述べ、対立的に捉えている。
 
 定家は文治2年(1186)、25歳の時に、西行から勧進された「二見浦百首」を詠んでいる。高野山から伊勢に移住していた西行が、大神宮法楽のため、定家、藤原隆信、慈円、寂蓮、公衡、藤原長方などの後の新古今歌壇を担う俊秀たちに呼びかけたもので、初学期の定家は、全力でこれに応じたようである。後にこの100首から、『千載集』に3首、『新古今集』に4首の歌が撰入されており、質的にも優れた達成を示している。

 この100首が西行の勧進によるという点でも予測されることであるが、全体に西行の歌の影響が少なからずみられる。この100首中の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」の歌も、明らかに西行の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」の影響下に詠まれている。

 ここでは「花も紅葉もない」と否定された眼前の蕭条たる光景に、花や紅葉が盛りであった折の美しい光景が二重写しとなって、その美的余韻の中に、作者は一歩退いて身を置いているのである。
 
「花も紅葉もない」というのであるから、眼前にあるのは、たしかに夕暮れのいわば墨絵のような情景である。しかし文芸というものは面白い性格があり、「花」や「紅葉」ということばが一度出てきたことによって、桜の花や紅葉の華やかなイメージが、一度脳裏に思い描かれる。それが今度は「ない」と否定されたことによって、墨絵のような情景があらわれてくる。そしてその二つの情景が二重写しになるのである。

 花や紅葉のような華やかなものはまったくない。そのような墨絵のような情景に、定家は深い感動を覚えたのである。この歌では、いわば無の中に美を見出す日本独特の審美眼ともみられるが、そのような美が、はじめて形を表したのが、定家のこの歌あたりであったと思われる。

西行を高く評価していた定家

 ところで定家は、生涯にいくつかの歌論書を書き、また秀歌選集を編んでいる。その歌論書には、しばしば秀歌例が付されている。

 元久2年(1205)に後鳥羽院の命で、『新古今和歌集』が撰進されている。源通具、藤原有家、藤原家隆、藤原定家、藤原雅経が撰者に撰ばれ、各撰者に歌を推薦させている。入集歌がどの撰者からの推薦であるかを示す「撰者名注記」が記されている写本があり、それをみれば、新古今和歌集に入集した西行の歌が、どの撰者から推された歌かが分かる。西行の『新古今集』に採録された歌の約3分の2に、定家の撰者名注記が記されている。この約3分の2という割合は、5人の撰者の中では、家隆と共に最も多いのである。
 
 定家には、建保3年(1215)頃に編纂された『二四代集』(定家八代抄)という秀歌選集がある。これは定家が八代集の歌の中から、自ら愛唱する歌、優れていると思う歌を抜き出し、座右に置いて、自らが歌をつくる時に参考にした、いわば作歌参考書ともいうべき性格の書物で、1800首余りから成る。ここで定家は人麻呂55首、俊成52首に次ぎ、西行の歌を50首選んでいる。

 これらの秀歌撰集を見ると、総じて定家は、西行の歌に対し、父俊成に次ぐ高い評価を下している事実を知ることができる。すなわち歌壇の中心にいた定家が、勅撰集的審美眼で歌を評価しても、西行の歌を最高に評価しているのである。

 両者の歌風の違いから、両者は互いに相手の歌を評価していなかったとする見方があるなら、それはまったく見当違いというべきであろう。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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