【大川原化工機冤罪事件】8回の保釈申請は却下…勾留中に胃がんで死亡した元役員の妻が語る“酷すぎる夫の扱い”
生前の名誉回復は果たせなかった
2月7日、相嶋さんは都内の病院で静かに息を引き取った。
東京地検が異例の「起訴取り消し」をしたのは7月31日。生前の名誉回復は果たせなかった。起訴取り消しが判明し、大川原社長は顧問弁護士の高田剛氏や元役員島田順司さん(70)と臨んだ記者会見で、「我々は名誉回復できたが、相嶋さんのことはどうしてくれるんだ」と怒りを見せた。
「妻よりも相嶋さんと一緒にいる時間が長かったかもしれない」と話していた大川原社長は、相嶋さんより一つ齢下になる。
妻は「主人は社長さんのことを『学会にばかり行ってるんだよ』なんてこぼしていたことがありました。でも、機械の虫のような夫と、いろんな情報を求めて勉強される理論肌の大川原さんで、タイプが違ってよかったのでは」と笑う。
スプレードライヤを愛した父
相嶋さんは学生の頃から「献金などで政治家に媚びる大企業は嫌いだ。技術、営業などすべて自分でやれる中小企業で働きたい」と言っていたという。東京工業大学工学部の応用化学科を卒業し、最初は甲陽建設工業(愛知県名古屋市)に勤めて集塵機の研究などをした。35、6歳の時、大川原化工機に転職し、ユニークな研究に没頭してきた。妻が回顧する。
「大川原化工機は基本的に注文生産で、ある時、漁協から養殖の稚魚に餌をやる機械を頼まれた。主人は稚魚の口に入る小さな餌の研究なんかをやって、完成した機械を納めに西日本各地の漁協に出張したりしていました。コメの籾から培土を作る研究とかもしていましたね。中国に工場を立ち上げる時は上海にも出張していました。機械づくり一筋、うまくいかないと家でもそればかり考えていました。私や子供にとって、マイホームパパとは縁遠い男でしたね」
昨年12月の記者会見で、相嶋さんの長男が「子どもの私が言うのも変ですが、父は子どもよりスプレードライヤを愛していました」と打ち明けていたのを思い出す。
「横浜の本社では営業の仕事が多くなっていましたが、70歳近くなって粉体技術研究所に転勤になったことを喜んでいました。『孫たちの教育資金も稼いでやらないと』と張り切っていました」
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