【大川原化工機冤罪事件】8回の保釈申請は却下…勾留中に胃がんで死亡した元役員の妻が語る“酷すぎる夫の扱い”
「拘置所なんかで死なせない」
入院は2週間後だった。治療が間に合うのか気が気でなかった。
入院までの間、寒い拘置所で過ごす相嶋さんのために、売店で毛布を買って差し入れた。売店の店主に「弁護士を足腰が立たなくなるまでこき使わなきゃだめだよ」と言われ、弁護士に「もっと動いてください」とはっぱをかけたという。さらに、店主は「ときどき黒い車が来ますよ。助からないとわかって病院に運ぶのかな」と言った。「絶対に拘置所なんかで死なせない」と妻は誓った。
東京拘置所から入院先の横浜の病院に直接行こうと考えていたが、裁判所に「1日は自宅に帰してから行ってください」と言われた。面会の帰りに、東京駅の車椅子の出入り口など、富士宮市まで夫を運ぶ方法を調べた。「裁判所は嫌がらせをしているとしか思えなかった」と妻は振り返る。
入院すると、相嶋さんはほっとしたような顔になった。入院先の副院長も気を使ってくれて、「スタッフは噂もするから」と言って、勾留中ということはカルテに書かないようにしてくれ、特定の医師だけに情報を共有した。
「ありがたかったけど、何も悪いことをしていないのにと思うと悔しかった」
普段なら怒るはずが…
病院を探し回っていたころ、拘置所での面会中、妻は相嶋さんに「死んじゃったら終わり。嘘でもいいから(容疑を)認めてしまえば」と言った。
「容疑の内容はよく分からなかったけど、死なれては元も子もない。普段なら『そんな嘘つけるか、お前、何が言いたいんだ』とか言って怒るはずの主人ですが、そんな元気もなく黙って俯いていました。そのころは貧血で皮膚が透き通るように白くなっていました」
亡くなる年の正月には、何も食べられなくなって水すらも吐いてしまう状態だった。1月13日に診察を受け、肝臓肥大と言われた。それを聞いた相嶋さんは「2月いっぱいもたないなあ」とうっすら涙を浮かべていたという。緩和病棟に移ると「もうだめか」と絶望した。その2週間後には、激痛に襲われてモルヒネを打った。
「『頭が狂っちゃう治療は嫌だな』と言っていましたが、だんだんと意識が朦朧とすることも増えてきました。私は病院の近くにマンションを借りて看病しました。自宅治療を許可されてからは抗がん剤治療もしましたが、高熱に悩まされました。氷枕を作ってもすぐに溶けてしまうほどでした。高島屋でおいしい魚を買ったり、スープや全粥も作りましたが、最後は食べ物をほとんど受け付けなかった」
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