冤罪事件で検察と警察に1億6000万円の支払い命令も…亡くなった大川原化工機元幹部夫人の告白「控訴するなんて思わなかった。がっかりです」

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わずか20分の面会

 長男も次男も「訳がわからない」と混乱していた。

「会社に連絡しても、社長と島田さんが逮捕されて社員はバタバタと混乱していました。その後、河村弁護士が来て、保釈請求の手続きを取ってくれた。すぐに保釈されるものとばかり思っていたが違いました」

 なかなか接見許可が下りなかったが、大崎署に勾留中にようやく実現した。

「留置場から連れて来られた主人とアクリル板越しの面会でした。書記のような男が見張っている。そんな場にいる主人を初めて見たのでドキドキしてしまいました。20分くらいでしたが、雰囲気に押されて何を訊いたかも覚えていません。元気でいてくれればと望むだけでした。明るく振る舞おうと思いましたが、くだらないことを言って迷惑かけてもいけないと思ったし……」

義父の火葬にも立ち会えなかった

 相嶋さんは煙草も酒も嗜むが、健康だった。

「太りすぎに注意していたくらい。ただ、50代の終わりごろ、脂肪肉腫で太腿から1キロも肉を取る手術をして放射線治療をしたことがあったので、留置場生活で大丈夫かなあと体調を心配していました」

 相嶋夫妻は18年に横浜市から富士宮市に引っ越した。妻の父を呼び寄せ、介護しながら3人で暮らしていた。

「主人の逮捕から2カ月経ったころに父が亡くなったんです。96歳でした。父はニュースをよく見る人で、逮捕された事情を分かっていて、私のことも心配していました。葬儀に出るため主人の勾留停止が認められましたが、8時間という制限があったため火葬場で見送ることができずに弁護士と拘置所に戻ってしまった。のちに会った時、主人は『お父さんを見送れなかった』と泣いていた。父は『百まで生きる』と言うほど元気でした。あんなこと(相嶋さんの逮捕)がなければ、もっと長生きしたのではないでしょうか」

 そして逮捕から半年ほどが経ち、相嶋さんは急激に体調を悪化させた。その後、進行性の胃がんが発覚したが、保釈は認められず、夫妻にはさらなる苦難が待ち受けていた。

 後編【【大川原化工機冤罪事件】8回の保釈申請は却下…勾留中に胃がんで死亡した元役員の妻が語る“酷すぎる夫の扱い”】へつづく

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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