「もう一人産みたくなる」奇跡の保育園が、学童保育と劇団を運営する重要な意味

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自分を押し殺して…精神的な疲弊で不登校に

〇綾部冬馬(仮名)

 共働きの両親のもとで、冬馬は長男として生まれ育った。両親は園の方針に賛同し、すぐ近くに家を買った。

 冬馬は、幼い頃から繊細で照れ屋なタイプだった。細かなことを気にし、人付き合いがさほど得意ではない。それでも園にいた時はやさしい友達や職員に囲まれて和気藹々と過ごしていた。

 だが、小学校の人間関係は園のそれとはまったく違った。学力やスポーツなどいろんなことを競わされ、教室では自分を押し殺して過ごすことを強いられる。冬馬には息苦しく、緊張を強いられる日々となったのだ。

 冬馬が不登校になったのは、1年生の秋だった。ある日急に気分が悪くなり、廊下で嘔吐した。これをきっかけに、彼は同級生の目が余計に気になって精神的に疲弊し、学校へ行けなくなったのである。

 共働きだった両親は、小学校低学年の冬馬を一人家に残すことが憚られ、日中はフリースクールやデイケアへ通うことを勧めた。見学にも行き、本人も気に入るような良いところもあったが、高額な入学金が必要だったり、遠方で両親の送迎が困難などの理由で、通わせるには至らなかった。仕方なく、両親は道枝に相談したところ、園で預かってもいいと言われた。冬馬も「やまなみなら行く」と答えたので行かせることにした。

 冬馬は前出の結菜とは逆に、園の中では子供たちと積極的にかかわりを持とうとした。厳しい競い合いに疲れていた彼にしてみれば、子供たちのゆるい空気や関係に身を置いた方がリラックスできたのかもしれない。子供たちに頼りにされているうちに自信も取り戻すようになっていく。そんな中で張りつめた心が解きほぐれていった。

 2年生の秋から、冬馬は両親の提案に従って少しずつ学校へ行くようになった。最初は親に伴われて放課後に先生に会いに行くところからはじめ、徐々に学校にいる時間を増やしていく。そして下の妹が同じ小学校に入学するタイミングで、本格的に通学を再開したのである。

 現在、冬馬は小学校の空気にも慣れ、毎日通うことができている。彼は時折こんな言葉を口にするそうだ。

「僕は不登校を卒業したけん!」

 彼なりに克服したという自信があるのだろう。1年間、園で心を休めたことが、それを実現したのだ。

卒園後のアフターフォローはなぜ必要か

 結菜と冬馬の例からもわかるように、子供にはそれぞれ不登校になる理由がある。不登校が全国で約30万人に上っている今、すべての子供にそのリスクがあると言っても過言ではない。

 これは、やまなみこども園の卒園生たちのように、幼い頃に柔軟性や主体性を育む保育を受けた子供たちであっても例外ではない。小学校に入って環境が大きく変わることで、そこでの人間関係に身を置けなくなることがあるのだ。

 それゆえ、園の職員たちは、卒園した後も子供たちへのアフターフォローが必要だと考えている。それが学童や児童劇団や卒園生が節目ごとに集る会、そして今回紹介したような不登校児に対する直接的なアプローチなのである。

 このような園の取り組みに注目したのが、通信制高校「勇志国際高校」だ。同校には小中学校の時に不登校だった生徒が多く、他者との交流や自己表現が苦手なことがあるため、啓を外部講師として招いてコミュニケーションの授業を担当してもらうことにしたのだ。

 では、通信制高校はどのような課題を抱えていて、啓はどのように生徒たちのコミュニケーション力をつけさせているのか。後編で詳しく見ていきたい。

(敬称略)

後編【元不登校の通信制高校生たちが「ものすごい成長」を遂げた 「次の子が産みたくなる」奇跡の保育園で何が起こったのか】へつづく

石井光太(いしいこうた)
作家。1977年東京都生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒。2005年『物乞う仏陀』でデビュー。『遺体』『浮浪児1945-』『「鬼畜」の家』など著書多数。21年に『こどもホスピスの奇跡』で第20回新潮ドキュメント賞を受賞した。

デイリー新潮編集部

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