「筋力がなかった自分にとって…」 日本人初のF1フル参戦・中嶋悟が雨に強かった“意外な理由”(小林信也)

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「自宅の倉庫に親父の古いバイクがあった。ホンダ・ベンリィ125。小学生のころからそれを持ちだして家の敷地で乗っていた。うちは農家で広かったから」

 中嶋悟が笑う。

「アクセルをふかすと一瞬でスピードが上がる、それが楽しかった。油のニオイ、エンジンの音、とにかく動く乗り物に興味があった。耕運機にも乗った」

 高校生になってカートレースの存在を知り、父親からマシンを買ってもらった。

「田んぼ道を異様なスピードで走る僕を見て親父が『お前の運転じゃ命が危ない。カートなら四輪だし、公道を走らないからいいだろう』って買ってくれた」

 兄の車で横浜までレースに行った。初めての挑戦。上級クラスと一緒に走る初級クラス。マシン性能の違う上級クラスには先に行かれたが、同じクラス車には一度も抜かれず、最後まで走り切った。

「兄貴と『表彰式を見て帰ろう』と。そしたら自分の名前が呼ばれた。いきなり優勝。いい気分だった(笑)」

 探し求めていた世界と出会った、と中嶋は直感した。

「中学では水泳部と体操部。高校に入って冬はスキー同好会、夏はサーフィンやヨットもやった。サーフィンは一度でやめた。ヨットも、海に障害物はないし、加速しないからつまらない。やっぱり原動機のついたものじゃないと僕は燃えなかった(苦笑)」

“井の中の蛙”大海へ

 1973年、ガソリンスタンドで働きながら、鈴鹿シルバーレースを皮切りに四輪レースに挑戦し始めた。初戦で3位、75年にはFL500でシリーズ優勝を飾るなど才能を発揮した。が、資金難が続き、76年でレースをやめる決断を迫られた。

「いろんな工場への支払いが2千万円くらいあったね。みんな、うちに土地があると知っていたから(笑)。土地がお金になるとは思っていなかったけど、農家で食べるものはたくさんあったから、食べるために働く気は全然なかった。確かに僕にとってレースは道楽みたいなものだった」

 同年、幸運にも強豪ファクトリーチームに誘われ、77年から当時最強といわれたヒーローズレーシングに所属。全日本F2000と鈴鹿F2000にエントリー。ノバ・エンジニアリングから参戦したFJ1300では7戦7勝。全レースでポールポジションを獲得し、シリーズ王者に輝く。翌78年、その戦歴を携えてイギリスF3レースに参戦した。

「イギリスではコテンパンにやられた。井の中の蛙だった。土曜のレースでクラッシュして車は大破。でも、その翌日に見たF1レースが僕の人生を変えた」

 中嶋が真剣な表情で振り返る。それは78年のイギリスGPだった。

「レース場の雰囲気が全然違った。観客席は満員。貴賓席には着飾った紳士淑女がたくさんいて、駐車場にはロールスロイスが並んでいた。とにかく華やか。世間で立派に認められているのがよく分かった。そのころ日本でレースは『暴走族やドラ息子の集まり』と見られていた。イギリスは違った。ここに来るしかない、僕は心に決めて帰国した」

 その日を境に、中嶋の考え方が変わった。

「レースがお遊びじゃなくなった。背負うものが大きくなった」、日本におけるレースの地位を上げるために走ると決めた。「それから10年かかったけどね」

 87年ブラジルGPで日本人初のF1フル参戦デビューを果たした。91年オーストラリアGPまで、計5年で出走80回。最高順位は87年イギリスGPと89年オーストラリアGPの4位。表彰台はかなわなかった。

「台の上から下を見てみたかった。3位になれそうな時に自分で失敗したしね。3位と4位ではとんでもない差があるよ」

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