現役引退後、37歳の時“うなぎ職人”に…元プロ野球選手(62)が語る“飲食店で成功した秘訣”24年間続いたうなぎ屋は今月末で閉店へ

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前編【セ3球団を渡り歩いた“代打の切り札”大野雄次さんの告白 巨人を出された原因は長嶋一茂、引退を決意して野村克也監督から送られた言葉】からのつづき

 現役引退後、「異業種の世界」で生きている元プロ野球選手の今に、ノンフィクションライターの長谷川晶一氏が迫る新連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第3回 は元大洋、巨人、ヤクルトと関東のセ・リーグ3球団をバット1本で渡り歩いた大野雄次氏(62)。前編では26歳でプロ入りしてからの選手生活を振り返ってもらった。後編は現役引退後、うなぎ職人として働きだした当時からの話を聞いた。(前後編の後編)

現役引退後、すぐに両国のうなぎ店で修業

 12年間のプロ生活を終え、37歳になっていた。セ・リーグ3球団、「代打稼業」で生きてきた大野雄次にとっての第二の人生が始まろうとしていた。

「引退後、何も迷うことはなかったよ。野村(克也)さんに引退の報告をした1カ月後にはすでに両国のガード下のうなぎ屋で働いていたからさ」

 現役時代から親交のあった、うなぎの名店「神田きくかわ」社長の紹介で、大野は新たな道を歩み始めた。

「社長に、“引退したら、何をしましょうかね?”って冗談っぽく言ったら、“おう、うちで働け”って言ってくれて、両国の店に連れていってくれて。引退したときに、女房に“半年ぐらい、アメリカで野球の勉強をして来ようと思うんだ”って言ったら、“そんな余裕ないでしょ”って言われてね、現実はそんなもんだよな(笑)」

 両国での修業は1年半ほど続いた。最初の半年間は貯金を切り崩しながら無給で働いた。「まずは仕事を覚えること」で必死だった。

「もちろん、最初は焼かせてなんかくれないよ。店を掃除して、ビールを運んで、栓を抜いて、その合間に職人さんが焼いている様子を見てさ。よく、お客さんに“お前、大野じゃないのか、何やってるんだよ?”って聞かれたから、“はい、引退したんで、修業してます”って答えてさ。そうして、ようやく焼かせてもらえるようになったら、“この仕事、面白いな”って。忙しいけど、儲かるし、すごく楽しかったんだよね」

 社長は大野をそのまま自分の下で働かせたかったようだ。しかし、大野は当初から“独立”にこだわった。現役を引退した2年後の2000年2月1日には、JR田町駅西口に隣接する森永プラザビル地下1階、エンゼル街に「大乃」をオープン。順風満帆なスタートを切った。

 毎朝5時半に起き、新横浜の自宅から、豊洲市場で新鮮なマグロを仕入れて、その足で築地の場外に行き、足りないものを仕入れるのが日課だ。7時頃に店に着くと、9時頃までは仕込み作業に取りかかる。9時半から1時間ほど店で仮眠をとり、11時半からのランチに備える。午後1時半には洗い物も済み、ようやくホッとひと息つくものの、5時には夜の営業が控えている。

「うまくいけば10時には店を閉められるけど、“そろそろ閉店です”って言っても、酔っ払いはそこからが長いでしょ。なかなか帰らないんだよ。商売に大切なことは努力じゃないね。体力だよな(笑)」

 こうした生活を、大野は約四半世紀も続けている。

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