セ3球団を渡り歩いた“代打の切り札”大野雄次さんの告白 巨人を出された原因は長嶋一茂、引退を決意して野村克也監督から送られた言葉

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野村克也から贈られた「全機現」という言葉を胸に

「日本シリーズの取材で藤田さんが神宮に行ったときに、試合前の練習中にオレの話題になって、“どこも悪くないなら大野がほしい”となったんだって」

 気持ちはすでに西武入りに傾いていた。しかし、長年慣れ親しんだセ・リーグでもう一度プレーしたい……大野は決断する。セ・リーグ3球団目。大野は33歳になろうとしていた。結果的にこの移籍は大野にとって、そしてヤクルトにとって吉と出た。野村克也が監督となって3年目。ヤクルトは92年にリーグ優勝、93年に日本一に輝き、チームとしての成熟期を迎えていた。

「普段はわいわいやっているのに、グラウンドに入ったらスイッチが切り替わる。選手を大人扱いしているから門限もなかった。結果さえ出せば何も言わない。野村さんはそういうやり方の人だったね」

 結果さえ出せば、あとは自由にしてよい。それは、大野にとって理想的な環境だった。

「セ・リーグ3球団を経験したでしょ。振り返ってみると、大洋は弱かったからロッカーの中も悲壮感があるのよ。雰囲気もドヨ~ンとしていた。で、巨人は常勝を義務付けられているから常にピリピリしてる。そして、ヤクルトはイケトラ(池山隆寛・広沢克己)の時代だから、ロッカー内にいろんな音楽がガンガン流れているんだ。選手の間を通って野村監督もトイレに行くんだけど、別に何も言わない。“すごいな、この球団”って思ったよ」

 ヤクルトでも代打稼業で結果を残した。95年、オリックスとの日本シリーズでは初戦に代打で登場してホームランを放ち、96年にはシーズン2本の代打満塁ホームランも記録している。チームに欠かせない切り札となっていた。

「野村さんが常に言っていたのは、“理想はレギュラー固定のチーム。それ以外の者は黒子に徹しろ”でした。オレの仕事は代打だと思っていたから、自分の出番が近づいてきたら、自分からブルペンに行って自軍のピッチャーのボールを見て目をならして準備をしてね」

 現役引退は自らの意思で決めた。

「98年のシーズンが終わって、野村監督が辞めるんであいさつに行ったんだよね。それで、“お前はどうするんだ?”って聞かれたから、“僕も辞めます”って」

 この場で野村は、「全機現」という言葉を贈った。禅の言葉で、「人間の持っているすべての能力を発揮すること」という意味だ。26歳でプロ入りした大野は37歳まで現役を続けた。プロ12年間で残した記録は190安打、27本塁打。数字以上のインパクトを残せたと本人は言う。

「オレのプロ野球人生? そうだなぁ、まさに、《全機現》だったと思うよ。よくやったと思うよ12年間もさ」

 大野が経営する「大乃」には、現役時代の写真パネルや、野村克也のサイン色紙が並び、一本の古びたバットが飾られている。そこには野村のサインとともに、「全機現」という言葉が添えられていた――。

(文中敬称略・後編【現役引退後、37歳の時“うなぎ職人”に…元プロ野球選手(62)が語る“飲食店で成功した秘訣”24年間続いたうなぎ屋は今月末で閉店へ】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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