【光る君へ】五男坊「藤原道長」が誰も予想しなかった大出世を遂げた“意外な要因”とは

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京都の人口の半分が死んだ天然痘の大流行

 そこに襲い掛かったのが「もがさ」と呼ばれる疫病だった。これは疱瘡、すなわち天然痘だったと考えられる。正暦4年(993)に九州で流行しはじめ、翌正暦5年(994)の4月から7月に京都で大流行し、『日本略記』七月条には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり」と記されている。すなわち、京都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が死んだというのである。

 もちろん、当時はウイルスの知識はなく、治療法もわからず、対策といえば、ただ加持祈祷を繰り返すくらいだから、いったんはやると猖獗をきわめた。そこらじゅうの路頭に死体が転がり、京都じゅうの堀水が死体でふさがったので、死体をかき流す措置までとられ、犬やカラスは死体の食べすぎで飽食状態だったという。

 それでも正暦5年のあいだは公卿の死者は出なかったというが、翌正暦6年(995)に流行が全国に広がると、公卿も例外ではなくなった。4月10日、ついに道隆が死去。その前に、関白職を弟で右大臣の道兼に譲ったのだが、すでにその時点では道兼にも感染していたようで、5月8日に死去してしまう。

 道長の話に戻る前に、もう少し疫病の話を続けると、この「もがさ」の流行も疫病の例に漏れず、ある時点でピタリと止まったようだ。しかし、寛仁4年(1020)にふたたび大流行している。『栄花物語』巻七によると、前回はやってから二十余年がすぎたので、警戒していたのだそうだ。案の定、流行して、二十代の若い人が罹患したという。つまり、二十余年前に感染して免疫ができていた人は免れたが、その後に生まれた世代が集中的に罹患したということらしい。

 疱瘡を患ったあとにはあばたが残ったので、往時の人は男女を問わず、多かれ少なかれ顔にあばたがある人が多かったと考えられている。

政権を大きく変える感染症リスク

 さて、道長である。兄の道隆と道兼が「もがさ」のために相次いで死去すると、長徳元年(995)5月10日、一条天皇は権大納言で大臣でもなかった道長に、内覧宣旨を賜っている。「内覧」とは、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前に内覧する役のことで、実質的な仕事内容は関白と変わらない。続けて、6月19日には右大臣になり、太政官一上(首班)となって、公卿議定を主宰するようになり、いきなり政権の中枢に座ったのである。

 もっとも、二人の兄が疫病で死去しても、長兄の道隆の嫡子である伊周に政権を担当させる手もあっただろうが、道長との関係が良好だった姉で一条天皇の生母である詮子の推しもあったと考えられている。前出の倉本氏は、「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と書いている(『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』文春新書)。

 だが、いずれにせよ、疫病によって兄が相次いで死去しなければ、道長がどれだけ優秀であったとしても、政権の座に就く可能性はきわめて低かっただろう。われわれは新型コロナウィルス感染症に振り回されたばかりだが、古代における感染症リスクは、今日におけるそれとは比較にならないほど高く、国家のあり方が変わりうるほどの影響をおよぼしたのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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