【光る君へ】五男坊「藤原道長」が誰も予想しなかった大出世を遂げた“意外な要因”とは

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 おもしろい会話があった。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第3回「謎の男」(1月21日放送)。藤原道長(柄本佑)とまひろ(吉高由里子演じる紫式部)が再会した際、道長は自分の周囲について「俺のまわりのおなごはみな淋しがっておる、男はみな偉くなりたがっておる」と説明すると、まひろは道長に「三郎(道長のこと)は名前しか書けないから、偉くなれないか」といって、大笑いしたのである。

 男はみな「偉くなりたがって」いても、道長は「偉くなれない」のではないか。――そう感じたのはまひろだけでなく、道長自身にせよ、その周囲にせよ、そのころ道長が偉くなると想像していた人は、ほとんどいなかったと思われる。

 というのも、道長には何人もの兄がいたからだ。ドラマでは三男坊として描かれ、そのため「三郎」と呼ばれている。事実、父の藤原兼家と嫡妻の藤原時姫とのあいだに生まれた男子のなかでは、道隆、道兼に続く三番目だった。しかし、兼家は『蜻蛉日記』の作者として知られる藤原道綱母とのあいだに三男の道綱を、藤原忠幹の娘とのあいだに四男の道義をもうけていたので、正確にいえば、道長は五男だった。三男でも父親並みの出世は困難なのに、五男となれば、その可能性はほとんどない。それが若き道長の周囲の認識だったと考えられる。

 道長が史料にはじめて描かれるのは、藤原実資が記した『小右記』の、天元5年(982)正月十日の記事で、昇殿を許された、すなわち、天皇側近の殿上人であることが認められた道長について、「右大臣の子道長」と記されている。『光る君へ』の時代考証も務めている倉本一宏氏は「前年に蔵人頭に補された二十六歳の気鋭の実資にとっては、十七歳で兼家の五男に過ぎない道長などは、呼び捨ての対象だったのであろう」と記している(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

 道長が従五位下に叙爵され、貴族として認められたのはその2年前の天元3年(980)、数え15歳のときで、天元6年(983)正月には侍従、永観2年(984)2月には右兵衛権佐へと昇進したが、とくに目立った出世ではなかった。

父から兄へと権力は譲渡された

 しかし、藤原道長といえば、のちに長女の彰子を一条天皇に入内させて皇后に立て、次女の妍子は三条天皇の中宮にし、彰子が産んだ敦成親王を後一条天皇として即位させると、天皇の外祖父として摂政になり、摂政を嫡子の頼道に譲ったのちも実権を掌握。さらには三女の威子を後一条天皇の中宮にして、藤原氏による摂関政治の最盛期を築いたことで知られる。権力の絶頂で詠んだ「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」は、あまりにも有名だ。

 では、どこでなにがどう間違って、五男坊が大出世を遂げることになったのだろうか。

 最初は父親の出世がきっかけだった。寛和2年(986)、兼家は花山天皇を出家させ、自分の次女の詮子が円融天皇に生ませた外孫の懐仁親王を一条天皇として即位させると、その摂政になったのだ。そこからは道長も出世を重ね、その年のうちに蔵人、少納言、左少将と昇進を遂げ、翌永延元年(987)には左京太夫となって従三位に叙され、上流貴族である公卿(太政官の最高幹部)の仲間入りをした。このとき道長は21歳だから、なかなか早い出世だったといえる。

 それでも道長は五男であり、兼家の嫡妻が産んだ男子にかぎっても三男にすぎない。権力を握れる立場からは遠かった。事実、兼家の後継としては兄たちがいた。永祚2年(990)7月2日、兼家は死去するが、それに先立って5月8日、関白の座を長男の道隆に譲っていた。

 その道隆はこの年の正月にはすでに、長女の定子を一条天皇に入内させ、中宮に立てていた。すなわち、父の兼家が一条天皇の外祖父として権力を握ったのに倣い、道隆も定子に一条天皇の子を生ませ、その子を天皇にし、父と同様に外祖父として権勢を振るう準備をしていたのである。しかも、嫡男で21歳の伊周を内大臣に就けた。このとき叔父の道長はまだ権大納言で、朝廷内での序列は甥っ子に抜かれてしまっていた。

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