コロナ専門家はなぜ嫌われるのか? 「国民は聡明だからわかってくれる」と語った尾身茂氏と、国民に向き合わない“政治主導”の深すぎる溝
専門家の「利用価値」
1995年の阪神・淡路大震災などを契機に、有事における「政治主導」が強調され、第二次安倍晋三政権下で首相が強いリーダーシップを握る「官邸主導」の完成を見た。いや、そのはずだったのに、コロナを通じて浮かぶのは、専門家が前に出ることを期待する政府のありようだった。
専門家の存在は目障りではあるが、同時に政治家にとって都合がよかった。なにしろウイルスの拡がりは複雑で、対応をしくじると支持率下落を誘発しかねない。身代わりとして批判の矢面に立ってくれる専門家に「利用価値」があったのだ。
国民は専門家の登場を歓迎したが、世論はうつろいやすい。流行がピークを過ぎたあたりを境に、反転して批判がふくらんだ。「えらい目に遭ったのは専門家の対策が失敗したからじゃないのか」と。
もちろん、政府の対応に議論があるのは健全なことだ。が、実際に決定権を握る政府はやや後衛に退いているために、生活をかき乱すものの元凶を専門家に求める国民の視線は、いちだんと厳しいものになった。
例えば2020年4月。リスクを語らない政府に苛立ちを募らせた西浦は「何も対策を取らないと42万人が死亡する」という試算を出した。「首相が言うべき筋の重い数字だ」といさめる先輩の押谷の忠告を押しのけ発信した西浦に、勇み足があったのは確かだ。しかし「政府の公式見解ではない」と切り捨てた菅官房長官(当時)が、翌年の五輪や経済再開まで見通した政府の見解を語るわけではなかった。
政府の発信が細る中、風向きの変化を敏感に感じ取った元大阪市長の橋下徹がツイッター(現・X)に<西浦さんたちのモデルに批判的検証を加える専門家の勇気と力を期待する>(2020年4月29日)と投稿したのを私は鮮明に記憶する。これが“犬笛”のようになって、「ありえない前提で不安を煽っている」といった専門家批判が強まった。
有事で機能しなかった「官邸主導」
安倍政権だけではない。2021年夏の第5波は専門家が東京五輪に反対したプロセスとして記憶している人も少なくないが、実際は違う。なぜ五輪をやるのか、その大義を菅首相自らが語るよう専門家たちは建言していた。変異株の出現で緊張感が高まり、国民の協力に理解を求める必要性が増したからだ。そして少しでも感染を下火にして大会を迎えるため「大会開催のリスク評価をさせてほしい」と訴えていた。
だが、菅氏は応えず語らず、またも専門家が独自に「無観客開催」の提言を発表した(結局、菅は採用する)。リスクを語ると反対勢力につけ込まれることを敬遠したこともあるが、菅は、そもそも語る言葉を持ち合わせていなかった。「政府は対処できるのか」と国民の不安は増幅した。五輪の祝祭は国論を二分して迎えることになった。
加えておくと、五輪の開催都市の首長だった小池百合子東京都知事は大会前、「COVID-19との戦いで金メダルを取りたい」と軽口をたたいたが、感染状況が深刻化するとメディアの前を沈黙のまま足早に立ち去る人となっていた。
コロナが5類へと切り替わったのは2023年5月、現・岸田政権のレガシーになっている。だがこの切り替えに向け、先に動いたのは尾身ら専門家たちだ。その反対に停滞させたのはほかならぬ岸田官邸だった。規制緩和の考え方をめぐって専門家の間で価値観の違いによる意見対立が鮮明になり、“今こそ政治の出番”という局面だった。それなのに反対論が巻き起こるのをおそれフリーズしていた。
3人の首相に共通するのは、肝心なところで果断になれない官邸主導の「実像」だった。支持率を権力のバロメータにするスタイルに浸かりきったせいで、本領を発揮すべき有事で機能しなかったのである。
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