「72時間生き埋めになった母の最期の言葉は…」 能登半島地震、遺族たちの悲痛な慟哭
「亡くなる数時間前、母は正気に戻ったのか…」
節子さんは輪島生まれの輪島育ち。長らく市役所に勤務し、40年ほど前に夫を亡くしている。
「ジャイアンツと孫が大好きでした。私の子はサッカーをしているのですが、試合の度に“どうだった?”と電話をかけてきたり、行事があると見にきたり。実家で遺品整理をしていたら、孫が地元紙に載った記事の切り抜きがたくさん見つかったんです。大切に取ってくれていたみたいで……。胸がいっぱいになりました」
忠司さんは元自衛官。伊丹に勤務の頃は、阪神・淡路大震災の現場にも駆け付けた。独身で、定年後、輪島に戻って節子さんと二人暮らしをしていた。
「大の読書家で、ミステリー小説が好き。段ボール箱何十箱分もの本を持っていました。最後に会ったのは昨年末。実家で食事をしました。母は珍しく、すしも焼き鳥もお肉もたくさん食べて……」
節子さんの死後、看護師からこんな話を聞いた。
「亡くなる数時間前、母は正気に戻ったのか、“忠司、忠司”と叫んでいたそうです。数メートル先でもはっきりと聞こえるような声で」
最後まで息子を気遣う“母”の姿だった。
「声をかけ続けたが、徐々に返事が…」
その輪島市街地から15キロほど離れた山あいに、同市門前町高根尾(もんぜんまちたかねお)地区がある。
「妻が亡くなったという実感はないままです」
門前中学校に設けられた避難所でそう語るのは、渡辺重光さん(70)。40年ほど連れ添った妻・秋美さん(65)を亡くした。
「あの日は初詣に行ってお昼ご飯を食べた後、1階の居間でテレビを見てゆっくり過ごしていたんです」
そんな時に1回目の揺れが来た。
「避難しようと妻と一緒にガスやストーブなんかを止めて回っている時に2度目の揺れが来た。2階部分が落っこちてきました」
重光さんは落ちてきた梁と床の30センチほどの隙間で、身動きが取れなくなった。
「妻はすぐそばで背後から倒れてきた柱に打ち付けられ、うつ伏せで倒れていました。僕も断続的に意識を失っていたので正確には覚えていないのですが、妻が“寒くなってきたね。寒くなってきたね”と繰り返し言うので、体をさすり、何とか温めようとしました」
しばらくすると救出に来た集落の人の声が聞こえた。
「しかし、僕と妻は完全に埋まってしまっているのでどこにいるのか見つからない。後で聞いた話では、隣の家の人も埋まっていたものの、やり取りはできたので、そちらの救助が先に行われていたそうです。その間も“ちょっと待っていてくれ”などという声は聞こえていたので、妻に“頑張れ。頑張れ”と声をかけ続けました。でも徐々に返事はなくなっていきました」
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