【王将戦第2局】菅井竜也八段の「話にならない」悪手で藤井聡太八冠が2連勝 思い出す副立会人の“珍事件”

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糸谷八段の過去の大珍事

 さて、この日、副立会人を務めていたのは広島県広島市出身の糸谷哲郎八段(35)である。プロ入りから1年後に大阪大学文学部に合格し、大学院在学中に竜王のタイトルを奪取したという異色の棋士である。

 さて、将棋には様々な反則があるが、プロの棋士もたまに「ポカ」をやってしまうことがある。とはいえ、「駒台事件」と呼ばれる奨励会時代の糸谷八段が記録した反則は、ちょっと前例がない。

 それは糸谷八段が奨励会三級だった時のこと。相手は後に名人戦3連覇を達成した佐藤天彦九段(36)で、当時、佐藤九段は奨励会一級だった。2人はともに1988年生まれ。空前絶後の珍事は、今やトップ棋士となった2人の対局で起こった。

 対局は糸谷八段が優勢だったという。佐藤九段は敵陣に入玉させて劣勢挽回を図った。そして糸谷八段が佐藤九段の銀を取った。ところが、何を慌てたのか、糸谷八段はその銀を自分の駒台ではなく佐藤九段の駒台に置いたのである。

「えっ」。佐藤九段は素っ頓狂な声を上げたという。当然だろう。相手に取られた駒を自分の駒台に置いてくれる対局者など過去にも経験はなかっただろう。後年、佐藤九段は「盤面ばかり見ていたが、何が起きたかわからなかった」などと回顧している。

 将棋に「取った駒を相手の駒台に置いてはならない」などの反則規定があるわけもない。相手を利するだけだから当然である。すぐに気づいた糸谷八段は「すみません」と手を挙げ、幹事だった井上慶太八段(当時)に相談した。糸谷八段は「置いちゃったんですけど……」と打ち明け、佐藤九段は「銀をいただいたのですが、どうすれば……」と相談した。

 前例のないことで井上九段もさすがに悩んだが、「ちょっと厳しくてかわいそうやけど、糸谷君の将来のためにと考え」、結局、糸谷八段を「反則負け」とした。井上九段はその時、号泣する糸谷八段に「こんな手は初めてや。君は大物や」「プロになったらこれも伝説になるから最高やで」と言って慰めた。思わぬ「反則負け」に消沈していた糸谷八段は笑顔を取り戻したそうだ。

真の「大物」に

 糸谷八段は関西本部に属し、森信雄七段(71)門下だ。同じ広島県出身の故・村山聖八段(1969~1998)の「弟弟子」でもある。村山八段は羽生善治九段(53)と互角に近い戦績を残しながら、1998年に29歳の若さで他界。その生涯を描いた大崎善生氏のノンフィクション「聖の青春」は、松山ケンイチの主演で映画にもなった。

 糸谷八段は井上九段の言葉通り17歳で四段に昇段、プロ入り後は順調に駆け上がり、2014年に初タイトルの竜王を獲得した。真の「大物」となって今やトップ棋士の1人として大活躍している。ちなみに、姓は「いとたに」ではなく「いとだに」が正しい呼び方。棋士仲間から「ダニやん」と呼ばれて親しまれる。文才も豊かで、NHKの将棋番組でもお馴染みである。

「駒台事件」は糸谷八段の幼少期の珍事ではあったが、兵庫県加古川市の将棋道場で菅井八段や名人戦に挑戦した稲葉陽八段(35)などを育て「名伯楽」と呼ばれる温かい人柄の井上九段ならではのエピソードでもある。トップ棋士を育てるのは直接の「師」だけではないことを感じた。
(一部敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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