能登半島地震 2度目の被災で「もう輪島には住めない」避難生活者の本音
「もう輪島には住めない」
輪島市の住平地区に長男と2人で暮らしていた蕨野朝子さんは県立輪島高校の2階に避難している。
「家はめちゃめちゃでもう住めません。息子と声を掛け合って、外壁を壊してやっと外に出ることができた。おせち料理をたくさん準備していたのに……。着の身着のままで通帳も持ってこられなかった」(蕨野さん)
避難所では、冷たい床に毛布を敷いただけで、「寒くて全然、寝られませんよ」と蕨野さん。
「最初は市役所に避難したけど、自衛隊の拠点になって追い出されました。ここも授業が始まったらまたどこかに行くらしい」(蕨野さん)
2007年の震度6強の地震も経験した蕨野さんは「瓦が全て落ちて、修理にお金もかかった。輪島の育ちだけど、(2度の震災を経験して)ここにはもう住めないと思う。阪神・淡路大震災をテレビで見てよそ事と思っていたけど、まさかここで同じことが起こるとは。金沢かどこかに引っ越すしかないです」と寂しそうに話した。
横にいた男性に仮設住宅の予定地を教えられた蕨野さんは「そんなところ、遠くて行かれへんわ」とがっかり。男性は「航空学園高校石川が春の甲子園に出られるかもしれない」と話した。きっとそれだけでも楽しみなのだろう。
孫と妻に覆いかぶさり…
輪島市の市街地から海岸沿いに東へ走る中で、大阪出身の藤原昭二さんに出会った。
15歳の時に輪島塗の修行のためにこの地に来て、現在は輪島市で画家として生計を立てているという藤原さんは「自宅の周りは、土砂崩れの危険が高い。それでも猫や犬を飼っているからといって、家を離れない人が多いんですよ。いまは、避難所となった公民館にいますが、いつまでもいるわけにいかず、新しい拠点を探しています」と話す。
発生時のことを訊くと「正月で孫が遊びに来ていた。テレビを見ていたところに突然、地震が来たんです。咄嗟に2人の孫と妻に布団をかぶせて、私がその上に覆いかぶさりました。揺れが収まるのを待って、壊れた玄関を滑り台のようにして逃げ出しました。もう家は住める状況ではない」という。
「耐震診断も罹災証明もまだです。早く罹災証明を出していただければ、必要な援助も求められるのに……。ボランティアもまだ受け入れられない状況で、来てくれません。新型コロナが流行してきており、こんな状況でも接触を避けなければならない。特に高齢者は孤立してしまうのではないかと心配です」(藤原さん)
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