21歳にして「目標は名脇役」と語った元関脇・寺尾 「和やかな相撲部屋」を作り上げた功績も(小林信也)
寺尾が十両に上がり、“未来の花形力士”と騒がれ始めた1984年、稽古場でインタビューする機会をもらった。寺尾が21歳、私も28歳と若かった。
「将来の目標は?」と尋ねると、寺尾は少し考えた後、「名脇役」と答えて、にやりとした。私は意表を突かれた。当然、「大関」とか「横綱」という答えが返ってくると思っていた。
父親は“もろ差しの名人”と呼ばれた元関脇・鶴ヶ嶺。いまも歴代1位の技能賞10回を誇る相撲巧者だった。その三男に生まれ、常に相撲が身近にあったせいだろうか、他の若い力士と違って、冷静に自分を客観視していた。あるいは、相撲界にはさまざまな役者がいてこそ土俵が華やかに活気づく妙味を、身をもって感じていたのだろう。父・鶴ヶ嶺はまさしく名脇役のひとりだった。
翌年、入幕した際にも記者たちの質問に、「名脇役になれればいい、主役にはなれないと思うので」と答えている。身長は185センチあったが、体重は16歳で入門した時、85キロしかなかった。「横になると口から食べ物が出る、だから食後しばらく立って過ごしていた」という逸話があるほど無理やり食べたが、それでも体重は思うように増えなかった。入幕の半年前にようやく100キロの大台に乗った。軽量力士の厳しさを寺尾はよくわきまえていたのだ。
後日談だが、つい数年前、ある雑誌のインタビューで寺尾の言葉を目にした。
「目標は名脇役と言い始めたのは、ある雑誌の取材に答えて思わずそう言ったのがきっかけなんです」
と寺尾がうれしそうに語っていた。もしかして、それは私の質問だろうか。そうだとすれば光栄だし、同時に彼の未来を規定してしまったようで申し訳ない気もした。
やがて寺尾の代名詞は“突っ張り”になった。
〈体が細かったから、親方に『突っ張れ』って言われたんだ。若い頃は四つ相撲も取っていたんだけどね…〉
と、武田葉月著『寺尾常史』(双葉社刊)の中で語っている。
「形容がつらいんだ」
〈最近は、「突っ張りの寺尾」の形容がつらいんだよ〉
との告白もある。それは傷めた手首が癒えず、ずっと痛みがあったからだ。
〈巡業の時とかに、観客の人から「寺尾、突っ張れ!」って声がかかるんだ。正直、「イテエんだけどなぁ」って思うけど、自分の性分として突っ張らなきゃと思って、やっちゃう〉
その突っ張りは、弟子の阿炎(あび)に受け継がれている。ちなみに「あび」は、寺尾の子どものころからの愛称だ。それを愛弟子の四股名にした。
同書には、引退の危機に直面したエピソードもつづられている。97年春場所13日目、旭鷲山戦で土俵下に落ち、右足親指を断裂骨折。初めて休場に追い込まれた。復帰後も苦しい土俵が続き、幕尻まで落ちて苦闘していた。
〈四日目の夜、ノブちゃん(親友のプロレスラー・高田延彦選手)から、「まぁ、いつかこういう時は来るんだから、それがたまたま今場所だっただけよ」って、電話で励まされてね。そしたら、気持ちがスーッと軽くなって、そのあと二時間くらい自転車で走ったんだ〉
どちらが長く現役を続けるか、賭けをしていた高田の言葉で、寺尾は試練を乗り越えたという。
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