高見山 ハスキーボイスの秘密、叶わなかった3つの目標…義理人情を大切にした相撲人生

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当時の米大統領から祝電が届いた初優勝

 さて、当時から高見山と共に注目されていた力士が、のちの大関・貴ノ花の花田だった。栃若時代を築いたあの横綱・若乃花の末弟だ。

 ジェシーは細い体でスピード出世してきている花田が気になってたまらなかった。ジェシーが幕内力士で乗り込んだ札幌夏巡業で、当時幕下の花田をあえて稽古相手に指名したものの、150キロのジェシーは90キロの花田にまるで勝てない。

「彼は細いけど、足腰が強くてしっかりしている。ボクは、体重は重いけど体が軽い。すごい力士が上がってきたなぁ」

 ジェシーは感心しきりだった。

 昭和47年名古屋場所では、初優勝。当時のニクソン米大統領から祝電が届くなど、ジェシーは名実ともに人気力士に成長した。しかし、その時すでに、ジェシーが「ボス」と仰いでいた師匠は他界していた。

「ボスがいなかったら、力士としてのボクはいない。亡くなった時、ボクは相撲をやめようと思ったくらいだった」

 義理人情に厚かったボス。ジェシーはどれほど、ボスに優勝を報告したかったことか……。

 日大相撲部から鳴り物入りで入門し、わずか3年で横綱に昇進した輪島は、ジェシーの大のお得意さんだった。立ち合いから一気にジェシーが突っ張れば、輪島は黄金の左を披露する間もなく土俵を割る。その勇姿がジェシー人気をさらに広めた。

 先の貴ノ花とは、幕内の土俵でなんと45回も対戦。2人の最後の対戦となった昭和55年秋場所は、後世に残る名勝負となった。高見山の手と貴ノ花の髷、どちらが先に土俵に付いたかで物言いが付き、微妙な判定でジェシーの勝ち。その翌年、貴ノ花は現役を引退した。

みずからの意志で日本国籍を取得

 その後も、ジェシーは相撲を取り続けた。全盛期に見せた、輪島を一発で土俵際に追い込むような相撲こそ取れなくなっていたが、35歳を過ぎても、パワーは衰えなかった。また、部屋には近大から学生横綱の長岡(のちの大関・朝潮、7代高砂親方 )が入門。ジェシーは率先して胸を出し、期待の若手を鍛えた。

 ジェシーには3つの目標があった。

 それは、40歳まで相撲を取ること、幕内在位百場所達成、昭和60年に完成する両国国技館の土俵に立つこと。残念ながら、それらの目標は叶うことがなかった。しかし、ジェシーは大相撲界で学んだ日本の義理人情を、自分が日本人になることで次の世代に伝えようとした。

 みずからの意志で日本国籍を取得し、引退後は東関部屋を興し、横綱・曙、高見盛らの力士を育てた。そして、平成21年6月、日本相撲協会を定年退職するにあたり、盛大なパーティーが開かれた。

「初めは500人くらい来てくれたらいいなぁと思っていたんだけど、2倍、2倍で1000人ね(笑)」

 故郷の後輩・コニシキ(元関脇・小錦)がハワイアン風の陽気なパーティーを演出し、出席者はジェシーの45年の功績を讃えた。

「ボクが大切にしてきたのは日本の義理人情。力士は1人じゃ強くなれない。『お互いさま』の気持ちを大切にしなくちゃね」

 日本人の心を持つ、ジェシーならではの重い言葉だ。

武田葉月
ノンフィクションライター。山形県山形市出身、清泉女子大学文学部卒業。出版社勤務を経て、現職へ。大相撲、アマチュア相撲、世界相撲など、おもに相撲の世界を中心に取材、執筆中。著書に、『横綱』『ドルジ 横綱朝青龍の素顔』(以上、講談社)、『インタビュー ザ・大関』『寺尾常史』『大相撲 想い出の名力士』(以上、双葉社)などがある。

デイリー新潮編集部

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