長い下積み時代、常に大切にしていた言葉、ステージが終わった夜はいつも…努力を重ねた八代亜紀の生き方
長い下積みの果てに
八代さんの故郷、熊本県八代市にも取材に行ったことがある。彼女が10歳のころ父親が脱サラして運送会社を始めたが、経営は火の車。いつも太陽みたいに明るく笑っていた父親が、苦汁に満ちた表情で帳簿とにらめっこしている姿を見て、「少しでも助けたい」。高校進学はあきらめ、地元の交通会社に就職してバスガイドになった。
真っ白なブラウスに紺の上着。両手に白い手袋をはめ帽子をかぶると、立派なバスガイドである。
だが、現実は甘くはなかった。いざマイクを握ってアナウンスすると緊張して手は震えるし、観光名所の名前は間違えるし。そのうえ車庫に戻ったらバスの掃除。中学時代の同級生らからは「制服、かっこいいじゃない」と冷やかされ、恥ずかしくてたまらなかった。
その一方で、クラブシンガーになりたいという幼いころからの夢が、だんだんと膨らんだ。入社して3カ月目くらいのとき。地元のアーケード通りにある「白馬(現・ニュー白馬)」というグランドキャバレーが歌手を募集していることを知った。18歳と偽ってオーディションを受けたら「専属歌手でお願いしたい」。両親には内緒で、翌日、バス会社に辞表を提出した。
それまでの八代さんは、父親譲りのハスキーボイスを「嫌な声だな」としか思っていなかった。だが、キャバレーで歌い出すと、店の雰囲気ががらりと変わった。客が立ち上がり、八代さんの歌に合わせてダンスを始めたそうである。「私って、いい声なんだ」。自信を持てた瞬間だった。
キャバレー白馬こそ、歌手・八代さんの原点だろう。2015年、プロモーションビデオの撮影に白馬を選んだ。10代で家を飛び出し、二度と帰ることはないと思っていた故郷・熊本。「いつか恩返しをしたかった」と八代さんは語った。
「舟唄」「雨の慕情」など大衆に支持されてきた八代演歌は、どん底からはいあがってきた人間の凝縮した怨念が一挙に燃焼した閃光と言えるかもしれない。キャバレー勤めがバレ、「お前はいつから不良になったんだ」と父親から頬を叩かれた。勘当され、単身上京。16歳のときである。
1966年、日本は高度成長へと駆け上っていた。新宿の“美人喫茶”で歌手兼ドアガールとして働いた。フロア中央にピアノがあり、スタンダードジャズやムード歌謡などを歌った。その後、銀座のクラブシンガーを経て、71年9月、テイチクから「愛は死んでも」でデビューする。
下積みが長かっただけに、遅咲きと言っていいだろう。だが、レコードは全く売れなかった。重いトランクを提げて「キャンペーン」と称するドサ回りの日々である。給料をマネジャーに持ち逃げされたこともあった。借金100万円。目の前は真っ暗。でも、歌手をやめようとは思わなかった。情感豊かな天性の歌唱の凄さは、日本歌謡史の中でも「唯一無二」。だが、才能におごらず、ひたすら音楽の勉強を続けた。
アメリカ南部の都市・メンフィスを訪ね、黒人労働者の歴史を学んだことがある。思い出したのが、幼いころ熊本の父親が歌っていた浪曲だった。その中に子守歌のメロディーが入っていた。子守奉公に出された貧しい農家の娘たちが、故郷に思いを馳せ、つらさを口ずさむことで我が身をなぐさめたという。
「哀愁漂うメロディーは、日本の歌の根源。日本のブルースです」
ドスの利いたハスキーボイス。情感を切々と歌う八代演歌は、清純派を売りにしたアイドル歌手を吹き飛ばす迫力があった。ファンには派手な装飾を施したデコトラ(デコレーショントラック)の運転手が多かったのもうなずける。長距離運転の孤独や仕事の過酷さを、八代演歌は癒す効果があるのだろう。
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