長い下積み時代、常に大切にしていた言葉、ステージが終わった夜はいつも…努力を重ねた八代亜紀の生き方
突然の訃報に驚いた方も多かったでしょう。発表されたのは年明けでしたが、亡くなったのは2023年12月30日。日本レコード大賞の開催日にしてNHK「紅白歌合戦」の前日でした。かつて両イベントに必ず出演していた八代亜紀さん(1950~2023)。もうあの歌声が聞けないとは……。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は魅惑のハスキーボイスの原点に、親しかった小泉さんが迫ります。
町中華のラーメンが大好き
オシャレな街並みが続く東京・自由が丘。
駅から八代亜紀さんの事務所まで歩いて十数分かかる。結構な距離だが、何度も歩いて通った。肉屋、蕎麦屋、総菜屋……。商店街のあちこちで、八代さんのポスターを見かけた。新曲の発売やコンサートがあると、地元の人たちが応援してくれるのである。
閑静な住宅街だが、少し離れた場所には八代さん行きつけの町中華もあった。海外でのコンサートなど少し日本を離れただけでも、帰りの飛行機の中で「あー、食べたい」。そう思ってしまったそうである。シャキシャキのモヤシがたっぷり入った熱々のラーメンが大好物。フーフーと言いながらスタッフと一緒に食べるのが恒例だった。近所のおじさんがギョーザをつまみにビールを飲んでいるような庶民的な店だった。
天下の大歌手なのに、偉ぶらなかった。いまも筆者がよく覚えているのがコロナ禍の2020年6月。この日は梅雨の中休み。黄色いヒマワリの花が事務所の中庭に咲いていた。
それまでは数千人規模の大ホールでのコンサートを普通にこなしていた。昼と夜の2回公演でもチケットはほぼ完売。コロナ禍の影響でコンサートは軒並み中止になったが、「この先、きっとよくなるから」。そこには明るい、いつもの八代さんがいた。
事務所の案内で神奈川県箱根町にある別荘を訪ねたことがある。この日、八代さんは不在だったが、八代さん専用のアトリエがあった。描き始めるのは午後から。夕食を挟み真夜中から未明まで絵筆を握るそうである。スタッフがコーヒーを持ってきても、全く気づかないこともあったそうだ。
子どもの頃から好きだった絵画。もう一度、独学で始め、49歳のときフランスのル・サロン展で銅賞を受賞した。
「例えて言うなら、時計の振り子。歌に没頭したら今度は絵画。大きく振れることで疲れた心を癒やすことができるし、力が沸くんです」
きらびやかなイメージの一方、コツコツ努力を重ねる人だった。ステージが終わった夜は、必ずその日の舞台のおさらいをする。ベッドの中でヘッドホンをし、その日、ステージ上で録音した自分の歌を流し、舞台の様子を思い浮かべたという。
「そうしないと眠りにつくことができないの」
ちゃめっけたっぷりの笑顔でそう話していたことを思い出す。
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