「子どもは珠洲に帰りたくないと言っていたのに…」 能登半島地震、妻子四人を失った警察官の悔恨
「私が孫と裕美さんと代わりたいくらい」
夜遅く、裕美さんと啓徳くんの遺体が発見された。
「本当に、私が孫と裕美さんと代わりたいくらいや。遺体はご近所の方の軽トラで、私たちが避難している大谷小中学校に運ばれた後、公民館に移され、10日になって霊柩車で金沢のほうに運ばれました。金沢の葬儀屋で対面した遺体はきれいでした」
角田さんが続けて話す。
「本当に私たちのことが好きな孫やったん。今回来る時も“食べたいものある?”と聞いたら、“煮物”って。私が作る煮物が好きやったんかね。ここんとこはコロナで、来ても日帰りやったから、本当に楽しく過ごしてたのに……ねぇ……。今後のことはまだあまり考えられない。避難生活に不満なんて、ないですよ。ご飯いただけるだけでも幸せ。辛いとか何もないです。ありがたいです」
食材を持ち寄って分け合い
大谷小中学校に避難している被災者の方々からはあまり不満は聞かれず、角田さんと同じく「ありがたい」と口にする人が多い。大谷地区から車と徒歩で30分ほどの場所にある笹波(ささなみ)地区もそれは同様で、さらに狭いコミュニティーの中、知恵やモノを出し合って過ごしている。
「ここはまだ交通が寸断されているので自分たちで何とかするしかない。でも、元々採れたものはご近所さん同士で融通し合う関係性があるので、自然と持ち寄ってみんなで分けています」
と語るのは、笹波地区にある「珠洲市自然休養村センター」で避難生活を送る金田早苗さん(61)。
「お米はたくさんありますし、白菜やしいたけや大根、ブロッコリーを持ってきてくれた人もいました。また、漁業権を持っている人もいるので、隆起した岩礁に張り付いたアワビやサザエを取ってきてくれる。普段は潜って取るのですが、隆起して外に出ているので取るのも楽だそうです」
同じ避難所の國永英代さん(51)も言う。
「私を含めた防災士の資格を持つ数人が中心になり、医療担当や物資担当など、担当を決めて日々を過ごしています。届いた物資などは、家から持ってきたパソコンでExcelで管理しています。あと、二次避難した人たちの行き先と連絡先も管理しています」
地震発生から2週間余り。当初の混乱状態から脱し、「次の段階」へと進んでいることが分かる。
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