「朝からビールを飲んで…」 プロ野球史上3位のホームラン王の晩年はなぜ孤独だったのか ホークス門田博光さんの死から1年

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身長170センチの本塁打王

 昨年のWBCで大活躍した選手の一人がソフトバンク・ホークスの近藤健介選手だ。レギュラーシーズンでも好調を維持し、本塁打と打点の2冠王に輝いている。身長171センチと野球選手として恵まれた体格とはいえないのだが、そんなハンデをものともしないパワーもまた魅力の一つだろう。

 昭和世代の野球ファンにとって、ホークスの小さな大打者といえば、門田博光さんの顔が浮かぶに違いない。身長170センチながら豪快なスイングで本塁打を量産。通算567本は王貞治、野村克也に続く、NPB史上3位である。ちなみに、騒動の末にホークスへの移籍が決まった山川穂高選手もどちらかといえば身長が高くないスラッガーだが、それでも176センチはある。

 門田さんのキャリアで特筆すべきは、40歳を過ぎても打ちまくったことだろう。40歳の時に本塁打、打点の2冠王に輝き、さらに41歳、42歳でも30本以上の本塁打を放っている。

 その門田さんが亡くなったのは、昨年1月24日のこと。素晴らしいキャリアからは想像できないような孤独な最期が伝えられている。

 同じパ・リーグの大選手、村田兆治さんが孤独な死を迎えた記憶も新しいところだっただけに、長年のプロ野球ファンにとっては衝撃が大きかったかもしれない。

(村田さんについては【関連記事】〈亡くなった村田兆治さん、6月に見せていた“異変” 近年は「うつっぽかった」の証言〉に詳しい)

 希代の大打者はなぜ一人、寂しい晩年を送ることになったのか。

(「週刊新潮」2023年2月9日号掲載記事を再構成したものです)

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「晩年は重い病気を患いながらも、一人暮らしを余儀なくされていた。倒れていた門田さんの第一発見者は、病院から“来院予定の門田さんが来ない”という通報を受けて、自宅にやってきた警察官でした」

 とスポーツ紙記者。兵庫県内の警備が行き届いた高級住宅地での話である。

 南海ホークスなどで活躍した現役時代の成績は、実に輝かしい。2571試合に出場し、通算打率は2割8分9厘。567本塁打と1678打点は歴代3位で、本塁打王を3回、打点王を2回獲得している。

 1988年、40歳で本塁打王と打点王の2冠に輝きMVPを獲得すると、「不惑の大砲」ともてはやされた。その年のオフ、南海がダイエーに球団を売却し、福岡へ移転したため、同時期に阪急から球団を買収したオリックスに移籍。そこでも、41歳で33本、42歳で31本もホームランを打った。

 現役最後の年はダイエーで過ごしたものの、当初、福岡行きを拒んだのは、関西にいる家族と離れないためだったという。ところが、

「不摂生で糖尿病を悪化させた挙句、奥さんとも離婚したと聞きます」(同)

すべてをバッティングに捧げていた

 だが、現役時代は、不摂生な晩年とは対照的なほど、一途に野球に取り組んでいた。元早稲田大学野球部監督の石山建一氏(80)は、

「門田は高3のとき、早大受験に失敗し、社会人野球のクラレ岡山に進んだ。私の早大野球部在籍時代にマネージャーを務めた奥田裕一郎という男が、クラレ岡山野球部でマネージャーを務めていて、彼が門田をクラレに誘ったのです」

 と話し、こう続ける。

「門田がプロで通用するか見てくれ、という奥田の依頼を受けてバッティングを見た私は、“バットの振り出しがすごく柔らかいので、プロでも通用する”と太鼓判を押しました。南海入団から数年後、野村克也氏と反目していた門田を、私の自宅に呼んで励ましたことがあります。そのとき彼は、入団1年目は球場外でホームランボール拾いばかりやらされ、打撃練習ができないと危機感を抱き、以後は毎日、指立て伏せを何百回もやっていると言っていた。また打撃練習では、外野フェンスに打球をめり込ませるつもりでバットを振っている、とも」

 それだけではない。

「オフに太る体質なので、シーズン前は体重を落とすために、1週間から10日ほど卵しか食べない卵ダイエットを実践。また、大選手になっても球場までは電車通勤で、車を運転すると試合前から神経を使い、バッティングに悪影響を及ぼす、というのが理由でした」

大けが中もトレーニング

 門田さんは1979年の春キャンプで右アキレス腱断裂の大けがをし、現役引退もうわさされた。当時の逸話を披露するのは、チームメートだった定岡智秋氏(69)で、

「呉での秋キャンプでは毎年、部屋が隣同士でしたが、その年は毎晩10時ごろから、門田さんの部屋でゴトゴトと騒々しい音がする。そこである晩、私は“一緒にワインを飲みませんか”と言って、原因を探るべく部屋を訪ねると、隅に10キロの鉄アレイが二つあった。“鉄アレイを使って上半身を鍛えてんのよ。下が(アキレス腱断裂で)使えん分、上を鍛えちょるんよ”と言っていました」

 翌80年、41本塁打でカムバック賞を受賞した。

朝からビールを飲む習慣

 そんな極端な野球バカには、別の面でも極端に走りやすい性質があったようだ。やはり南海で共にプレーした高柳秀樹氏(65)が言う。

「ある年のキャンプ前、門田さんは1度だけ自主トレで台湾を訪れたが、現地の水道水は不衛生で飲めないので、水代わりにビールを飲まざるをえなかったとか。以来、朝から水代わりにビールを飲む習慣がついたのではないかと思います。国内でのキャンプ中も、ホテルの部屋の冷蔵庫にあるビールをすべて飲んでしまうと言っていました」

 門田さんの引退後、こんな経験もしたそうだ。

「朝日放送の野球解説をされていた門田さんに、宮崎のキャンプ地でお会いしたのですが、駅の近くに開店前の居酒屋があり、朝8時ごろ、私は店主に“すみません、ちょっと飲ませていただけますか”と頼みました。なぜなら、私の背後に門田さんが仁王立ちし、飲みたそうに店内の様子をうかがっていたからです。門田さんはビールを1本飲み干し、電車に駆け込みました」

 ロッテなどで活躍した得津高宏氏(75)も、同様の経験をしている。

「二十数年前、私がホークスの編成部に在籍し、カドは朝日放送の野球解説をしていたときのこと。キャンプ地レポートを担当していた彼が、宮崎から延岡に電車で移動する際、朝8時ごろに宮崎駅でばったり会ったのですが、居酒屋の看板を見るや否や、急いで店に駆け込んでビールを飲んだ後、さらに缶ビールを数本買って車内に持ち込み、延岡に着く前に全部飲み干してしまった」

 阪急などでプレーし、2000本安打も達成した加藤秀司氏(74)は、

「私が南海ホークス在籍時、1シーズンだけ一緒にやった当時は、40歳近くになっても人一倍練習をし、飲んでもビール大瓶2本程度。飲酒よりも麻雀をよくやっている印象でした」

 と語るが、一方で、

「よく“血圧が高い”“血糖値が高い”と言っていたのを覚えています」

 そうした萌芽が、引退後のがぶ飲みのせいで一挙に開いたことは、想像にかたくない。定岡氏が20年以上前のこととして話す。

「私がダイエーホークスのフロント入りした後、門田さんが朝日放送の解説者として、春キャンプを取材に来られた。“サダ、選手が誰もわからん”と言うので、私は選手との顔合わせを頼みに“(監督の)王さんを呼んできます”と告げ、門田さんはその場にとどまらせた。なぜなら見るからに足が悪そうだったから。門田さんは“足の指がもうあれなんよ、ないんや。足もこうなってなあ”とこぼしていた。手術を受けたという片足には、頑丈そうな厚底ブーツを履いていました」

「晩年はずっと一人だったと思います」

 たとえば、指導者の道に興味がなかったわけではないという。南海時代の同僚の黒田正宏氏(75)は、

「引退後に誘いはあったようですけど、“まだ若いから”と言って、断っていたんですよね」

 と打ち明ける。引退の際に、ロッテ球団からコーチへの要請がありながら、断ったというのだ。その一方で、監督になる野心も持っていて、得津氏は、

「おたがい50歳ぐらいのとき、“ロッテの監督をやりたいから、金田正一さんのところに相談に行こうと思う”という言葉を、彼から直接聞かされました」

 と回顧する。だが、そのころは糖尿病が進んでおり、

「監督に就任できなかった最大の要因は、体調面を不安視されたからです」

 と前出の記者。同時にどんどん孤独になっていった。南海時代から親しくしていた元選手の一人が言う。

「門田は元々、奈良市の学園前に住んでいた。それが生駒市やらのマンションを転々とするようになり、2007年以降、亡くなった兵庫県相生市に来た。周囲に家庭のことを絶対話さないヤツだったけど、マンションを転々としたのは離婚したからじゃないかな。晩年はずっと一人だったと思いますよ。病気のことも周囲には見せたがらなかったが、糖尿病の壊疽(えそ)のせいで、足の一部を切ったとは聞いていて、本人も“足をやけどしてもわからんわ”と話していました」

透析終わりにビールを

 2021年5月に門田さんを取材した、ジャーナリストの松永多佳倫(たかりん)氏は、

「対面して驚きました。やせ細り顔色は土気色。声に覇気がなく、いかにも体調が悪そう。インタビュー中も度々“しんどいですわ”と漏らしていました」

 と印象を述懐したうえで、こう語る。

「インタビューの5~6年前に透析を始めたそうです。現役時代もシーズン中は節制しても、オフになると豪快に飲み、引退後はビール中瓶20~30本、日本酒なら一升瓶を2日で空けていたとか。コーラも好きで、試合前にがぶ飲みする習慣だったそうです。そんな不摂生がたたったか、2003年と05年に小脳梗塞に。最初は福本豊さんの殿堂入りパーティーから帰り、風呂場で耳に入った水を抜こうとしたら、ハンマーで殴られたような痛みが走ったとか。次はテレビを見ていて伸びをしたら、頭に破裂音が走ったそうです。それでもお酒を完全にはやめられなかったと話していました。透析治療開始後も、透析前は水分摂取が厳しく制限されるので“透析終わりに飲むビールがなんともうまい”と」

 いつしか、酒が友となってしまったのだろうか。

「身を寄せる家族もマネージャーもいない気配で、本当に孤独のように感じました。現役時代、勝負の世界は一人でいい、という考えだっただけに、“引退したら横のつながりがなく、話し相手もいなくて大変だ”と漏らしていました。陶芸、絵画、仏像彫りなど多趣味で知られましたが、本人いわく、それらは野球のために、集中力や手先の感覚を研ぎ澄ますべくやっていたので、引退後は全部やめてしまったそうです」

 前出の定岡氏は、

「2009年、門田さんは独立リーグ“大阪ホークスドリーム”を設立し、自ら総監督に就任。私もその前年から独立リーグの監督に就いていて、当時は頻繁に電話連絡をし合いました」

 と話すが、体調のせいで長くは続けられない。あるプロ野球関係者が語る。

「昨年秋ごろ、NHKがある番組の出演オファーをかけたそうですが、体調が芳しくなくて断っていた。そもそも2018年、巨人と南海のOB戦が開催され、パンフレットの出場選手リストには門田さんの名前がありましたが、当日はベンチにもいませんでした」

 再び定岡氏が、

「門田さんは特定の人としか交流せず、身内話は全然しないタイプ。とどのつまりが一匹狼」

 と回想する。現役時代は黙っていても周囲に大勢の人がいるから、それでもいいだろうが、引退してもたった一人では、だれの助言も得られない。

 晩年には身内とも離れて暮らしていたという。
 
 寂しい、あまりに寂しい最期だった。
 
 【関連記事】〈亡くなった村田兆治さん、6月に見せていた“異変” 近年は「うつっぽかった」の証言〉では、門田さんの2カ月前にやはり寂しい最期を迎えることになった大選手、村田兆治投手の晩年についてお伝えしている。

デイリー新潮編集部

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