50歳「不倫男性」の告白 妻を紹介したら、実母はいきなり「あの人は私と同じ匂いがする」と漏らした…その直感は怖いくらい当たっていた
母の助けを借りて子育て
39歳のときに子どもができた。子どもはいらないと言っていたのに、麻美子さんは大喜びだった。「結婚しているのだから、子どものひとりくらいいないとかっこがつかない。よかった」という表現が気にはなったが、いちいち言葉尻を指摘すると怒られるので黙っていた。そのころからすでに気持ちのすれ違いはあったのだと和喜さんは振り返る。
「ただ、生んでしまうと彼女はあまり子どもに関心をもたなかった。不思議でしたね。あんな小さな赤ちゃん、無条件にかわいいし守りたくなるものだと思うけど。だんだんわかっていったんだけど、彼女は親にものすごくかわいがられて育っているんです。でも自分がかわいがられる存在でいつづけたかったんだと思う。自分が誰かを無条件に愛するのは苦手だったのかもしれません」
彼は息子のめんどうをせっせと見たが、昼間はどうにもならない。妻に任せておくのは怖かった。そんな話を母親にちょっと愚痴ったら「私が行ってあげる」ということになった。
当時、母親は65歳。定年後に嘱託として勤めていた会社も辞めたばかりだった。母は実家をそのままにして和喜さんの自宅の近くに小さなアパートを借りて移ってきた。
「うちに通って子どものめんどうを見てくれました。子どもの検診なども母が連れて行った。麻美子は動けるようになるとエステに行ったり運動を始めたりしていたようです。当時、僕が帰るともう母はアパートに戻っていたから、麻美子からよく『お義母さんが来てくれるのはいいけど、あまり子どものめんどうを見てくれない』と聞かされていました。それでも呼んでしまったのは僕だから、まあ、うまくやってくれよというしかなかった。あとから、実は母がほとんど家事も育児もやっていて、麻美子は何もしていなかったとわかったんです。麻美子は直接的な悪口は言わないんです。でも言外に母が使えない、何もしないと言いたかったのでしょう」
和喜さんは母に少しだが現金を渡していた。ベビーシッターを雇ったら莫大な費用がかかるところを母が助けてくれているのだから、それは当たり前だと思っていた。
「でも当時、母は『私にだってそこそこの貯金はあるから、こんなことしてもらわなくていい』と言っていたんです。それでもと僕は受け取らせていた。母は『じゃあ、孫が大きくなるまで貯めておくからね』と受け取ってくれた」
10ヶ月後、麻美子さんは保育園を見つけて仕事に復帰した。母は変わらず保育園のお迎えに行ったり夜まで息子を預かったりと力になってくれていた。
「息子が小学校に入ったばかりのころ、母がガンになりました。手術したんですが、傷口の治りが悪くて入院が長引いて。その間は妻も仕事と子育て、がんばって時間をやりくりしていました。母の退院が決まったとき、僕はホッとしたけど妻は浮かない顔をしていたんです。僕が思っているより母と妻の確執は大きいのかもしれないと感じました」
それでも問題が表に浮上してこないから、対処のしようがなかったと和喜さんは言う。妻も母も平穏な生活を心がけているように見えたのだ。母の病気を機に、麻美子さんも家庭に目を向けるはずと彼は思っていた。
後編【「上司の愛人だった妻」「シングルマザーの実母」二人の秘密を知ってがく然…50歳「不倫男性」の心境「僕には女難の相があるのでしょうか」】へつづく
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