蓮舫議員の“決め台詞”が思い浮かぶ…「膨張する予算」「定額減税」「安倍派裏金問題」は全て根っこは同じ問題と言える理由
国会質問で「国民が望んでいることなのですか」という文言がよく聞かれる。とりわけ立憲民主党の蓮舫参議院議員が、これを決め台詞のように政府・与党を追及する声が耳に残っているが、はたして「国民が望んでいること」とはなんなのか。さらにいえば、政治家にとって(ひいては政府または国会にとっても)、それが第一義的なことなのだろうか。
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3年間におよんだコロナ禍では、そのことについて考えさせられる場面が多かった。当時はワイドショーをはじめとするテレビ番組が、「専門家」とともに新型コロナウイルスがいかに恐ろしいかと執拗に煽り立てた影響もあり、政府が緊急事態宣言などによって国民の行動を規制することを、むしろ「国民が望んでいる」状況が生まれた。
それは報道各社による世論調査の結果などに顕著に表れた。行動制限の影響で運輸や飲食、文化関連の業種などが大きなダメージを受ける傍ら、世論調査を見ると「国民が望んでいること」は規制やその継続であり、選挙のために世論を気にする政治家たちは、規制をするという選択をした。政府はもとより、与党も野党も規制を優先するという点では一致した。
しかし、それがほんとうに「国民が望んでいること」だったのだろうか。
新型コロナウイルスがもたらした感染症が、軽視できないものであったのは疑いないとしても、ペストやエボラ出血熱のように致死率が高いものではなかった。そもそも、われわれは常にいくつものウイルスに囲まれているほか、世の中は種々のリスクが満ちている。だから、新型コロナだけを避ければ身の安全が守られるというものではなかった。
一例を挙げれば、コロナ禍を迎える前は、高齢者に対して、外出し、身体を動かし、人と会話し、さまざまな見聞をとおして刺激を受けることが推奨されていた。それによって、身体が衰え、脳が老化するのを防ぐ、という趣旨であった。逆にいえば、そうした生活をしていないと危険だというメッセージでもあったのだが、ひとたび新型コロナが流行すると、日本老年医学会をはじめ、そうして警鐘を鳴らす主体は失われた。
その結果、新型コロナを恐れるあまり、家に閉じこもり、人との接触を断ち、趣味や嗜好をあきらめる高齢者が続出し、彼らの多くが必要以上に衰えるという悲劇に見舞われた。はたして高齢者にとって、新型コロナのリスクと行動が規制されるリスクの、どちらが高かったのだろうか。
もちろん、自身の行動を規制することを選択した高齢者にとっては、それが「望んでいること」だったわけだが、いうまでもなく、充分な知見を得たうえでの判断ではなかった。テレビに煽られた高齢者が必要以上に怖がっていたなら、科学的な知見にもとづいて正しい情報をあたえ、なにを「望む」のがいいのか、あらためて考えさせるのが政府の、そして政治家の仕事ではなかったか。知らないために「望んでいる」ことに政府や政治家が迎合してどうするのか。
結果的に、衰えなくてもいい人が衰え、規制のために何十兆円という、国家を傾けかねないほどの予算が投じられ、諸外国にくらべて規制の解除が遅れて経済的なハンデを負う、といった結果がもたらされたが、それが「国民が望んでいること」であったはずはなかろう。
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