「消費者金融で借りた100万円が一瞬で消えて…」 「純烈」リーダー・酒井一圭が語ったアツ過ぎる競馬愛

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「もう二度と俳優はできないかもしれない」

 もう顔面蒼白なんてもんじゃありません。血の気の失せた僕はその場に立っていることもできなかった。翌年にスタートした「百獣戦隊ガオレンジャー」のオーディションに合格していなければ、自己破産は免れられなかったと思いますよ。

 もちろん、その後も試練は続きました。07年には映画の撮影中、ジャンプして着地した拍子に右足首を複雑骨折し、緊急手術に。医師からは「もう二度と俳優はできないかもしれない」と言われ「馬主の夢もここまでか……」とひどく塞ぎ込んだこともありました。でも、入院していた僕の夢に毎晩、歌手の前川清さんが出てきて、僕は「ムード歌謡」をやろうと決意した。

 退院直後の5月27日、松葉づえ姿の僕が訪れたのは、やはり東京競馬場でした。この日行われたのは、日本ダービー。果たして、レースを制したのは、牝馬として64年ぶりのダービー優勝となったウオッカでした。彼女の走りを目の当たりにした僕は「自分だって紅白に行けるはず」と思いを強くしたんです。

とっさの思い付きで北島三郎に声をかけ…

 さっそくメンバー集めを始め、ボイストレーニング期間を経て「純烈」としてメジャーデビューしたのは3年後のことでした。

 13年、「純烈」は日本クラウンというレコード会社に移籍。日本クラウンの所属歌手のトップは、何といっても北島三郎さんです。そんな縁から北島さんがBSテレ東でやっていた歌番組にも時々呼んでいただけるようになって。

 番組の収録前には、出演者が列をなして北島さんにあいさつに行くんですが、皆さん、北島さんのことを「御大」とか「先生」とかって呼ぶんです。最後方で並んでいた僕たちは、何とか名前だけでも覚えてほしいと思うのですが、当時はまだテレビに出ているわけでなし、歌がヒットしているわけでなし。いよいよあいさつという時、僕はとっさの思い付きで賭けに出た。北島さんに「オーナー!」と声をかけたんです。今でこそ「キタサンブラック」が有名ですが、当時は北島さんが馬主だというのは一般にはあまり浸透していなかった。北島さんも驚いていましたが、それ以上に、周りのスタッフやレコード会社の社員にトンデモない目でにらまれたことを覚えています。

 僕は「やってしまったか!」と最悪の事態も覚悟したのですが、北島さんは「おう! お前、競馬すきなのか」と意に介する様子もない。それどころか収録が終わると「ちょっと純烈を呼んでくれ!」と個別に声をかけていただいて「この間の競馬はどう思った?」とか「今度、うちの馬が走るから見てくれや」とか。

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