「6年連続打率3割」でも阪神とヤクルトから解雇…あまりに不運すぎる助っ人列伝
185センチ、102キロの巨漢
2年連続30本塁打以上を記録したのに、クビになったのが、西武時代のドミンゴ・マルティネスである。
1997年、不動の4番・清原和博が巨人にFA移籍した西武は、新主砲候補としてマルティネスを獲得した。
メジャー時代は通算15試合と出場機会に恵まれなかったものの、数少ない打席の中で打率.409、2本塁打、6打点、前年も3Aのメキシカンリーグで8月の1ヵ月間に.360、7本塁打と固め打ちしたことが評価されたのだ。
だが、185センチ、102キロの巨体がトレードマークのドミニカンは、2月の春季キャンプに合流した数日後、普通に歩いていただけでアキレス腱を痛め、腹筋すら満足にできない状態。オープン戦でも24打数4安打と不振を極めたことから、就任3年目の優勝を期していた東尾修監督も、堤義明オーナーに新外国人の獲得を進言するほどだった。
そんなクビ寸前の危機も、試合前のミーティングに集合時間の20分前に現れ、相手投手のクセや特徴を熱心に聞き出す研究熱心さやコーチの指示に素直に従う真面目さが、次第に結果につながっていく。
再び“清原の代役”
そして、シーズンが開幕すると、DHに起用され、苦手の守備の負担もなくなったマルティネスは、家族の来日でモチベーションも高まり、水を得た魚のように快打を連発。「マルちゃんが打った日は負けない」の不敗神話も定着し、打率.305、31本塁打、108打点でチームの3年ぶりリーグ優勝の立役者になった。
翌98年も.283、30本塁打、95打点でリーグ2連覇に貢献し、「もう1年契約があるかなと思っていた」が、日本シリーズで「走れない」「守れない」の弱点を露呈したことやチームの若返り策から解雇されてしまった。
その後、再びメキシカンリーグでプレーしていたマルティネスは1999年6月、主砲・清原の負傷離脱で打線の強化を急務とする長嶋巨人から声がかかり、ここでも“清原の代役”として入団する。
出場83試合で打率.324、16本塁打、56打点と穴を埋めた。翌00年にも打率.288、17本塁打、64打点を記録。清原が完全復活した01年は出番が減り、同年限りで退団したものの、3年連続二桁本塁打とそれなりの存在感を示している。