「6年連続打率3割」でも阪神とヤクルトから解雇…あまりに不運すぎる助っ人列伝

スポーツ 野球

  • ブックマーク

キャンプ中にステーキ10枚を平らげた“パッキー”

 西武が6人の新外国人を獲得するなど、2024年シーズンも、助っ人がチームの浮沈のカギを握る状況に変わりはない。入団時の期待が大きい分、活躍できなければ1年でクビになるケースも多いが、その一方で、活躍したにもかかわらず、チームをお払い箱になった不運な助っ人も存在する。【久保田龍雄/ライター】

 首位打者を獲得するなど、来日1年目から4年連続打率3割以上を記録したのに、非情のクビ宣告を受けたのが、大洋時代のジム・パチョレックである。

 1988年、「(カルロス)ポンセのあとの5番を打つ右打ちのできる打者」という古葉竹識監督の要請を受け、「ミートが巧く、性格も真面目」(牛込惟浩渉外担当)と推薦され、入団が決まる。

 キャンプ中にステーキ10枚を平らげ、大食漢としても名を馳せた新助っ人は、オープン戦では打率.231、3本塁打、5三振、6併殺打と不振ながら、シーズン開幕後は、開幕戦から4試合連続マルチ安打を記録するなど、リーグ最多の165安打と“安打製造機”ぶりを発揮。

 リーグ2位の打率.332、17本塁打、76打点とまずまずの成績を残し、“パッキー”の愛称でファンにも親しまれた。

 翌89年もリーグ2位の打率.333、2度目のリーグ最多安打(172安打)を記録した90年には.326で首位打者を獲得したが、91年に.310とやや数字を下げると、「本塁打が少ない(11本)」という理由でクビになってしまう。

 だが、この本塁打の少なさが、阪神に評価されるのだから、野球は面白い。甲子園のラッキーゾーンが撤廃され、広くなった球場に適した強打者を求めていた中村勝広監督にとって、「確実性のあるラインドライブヒッター」はうってつけの助っ人だった。

 翌92年、阪神に移籍したパチョレックは、シーズン後半に4番を任され、打率.311、22本塁打、88打点でチームの6年ぶりAクラス入りに貢献。見事古巣を見返した。

「阪神はひどいミステークを犯したってことだよ」

 4年連続打率3割でクビになった助っ人といえば、1992年に前出のパチョレックとともに阪神の主軸を担ったトーマス・オマリーも該当する。

 来日1年目の91年は4番を打ち、打率.307、21本塁打、81打点を記録。翌92年、甲子園のラッキーゾーンが撤廃されると、ヒット狙いの打撃にモデルチェンジし、.325とリーグトップの出塁率.460をマーク(以後、4年連続で最高出塁率を記録)。さらに93年には.329で首位打者に輝いた。

 94年にも.314、15本塁打、74打点とそこそこの成績を残したが、長打力不足と守備面の不安を理由に自由契約になってしまう。

 だが、4年連続の3割打者ともなれば、他球団も放っておかない。広沢克己、ジャック・ハウエルの両主砲が巨人に流出し、打線強化の必要に迫られたヤクルトへの移籍が決まる。

 翌95年、オマリーは打率.302、31本塁打、87打点と4番の重責をはたし、チームの日本一に貢献。オリックスとの日本シリーズ第4戦の延長11回に演じた小林宏との名勝負は、「小林・オマリーの14球」として今も語り継がれている。

 2本塁打を記録し、シリーズMVPに輝いたオマリーは「最高の気分だ!今こうしていられるのは、ヤクルトでプレーできたお蔭。阪神はひどいミステークを犯したってことだよ」と胸を張った。

 しかし、移籍2年目も.315、18本塁打とキャリアハイの97打点をマークしたにもかかわらず、「チームが転換期にある」と電話1本で解雇された。6年連続打率3割を記録しながら、2度もお払い箱になった不運な助っ人は、もちろんオマリーだけだ。

次ページ:185センチ、102キロの巨漢

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。