【筑紫哲也の生き方】原点は「昭和10年生まれだからね」、知られざる政治記者時代…最後にテレビの世界を選んだ理由

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「それもニュースなんだよ」

 話を戻そう。2007年5月、TBS「NEWS23」の放送中、自身が初期の肺がんに冒されていることを告白。治療に専念し、約5カ月後の10月、「ほぼ撃退した」と生出演を果たしたが、12月から共同通信出身の後藤謙次さん(74)にキャスターに就任して以降、テレビ出演は減った。だが、闘病中も執筆は継続。ジャーナリズムへの熱い思いは消えることはなかった。まさにそれは、最後の希望の灯火のように見えた。

 ここで私は疑問を感じた。筑紫さんが朝日新聞社に入社した1959年ごろは、新聞がニュースメディアの王者として君臨していた。王者の立場は80年代も揺るぎなかったと思うが、筑紫さんはなぜ、ジャーナリストの最後にテレビの世界を選んだのだろう。

 08年11月8日の朝日新聞朝刊社会面の評伝は、こう書いている。

《新聞にも勝る速報性、そしてジャーナリストとして個人の主張をより直接的に視聴者に語りかけることもできる。しかも、多くの文化人や芸術家を番組に招いたように、雑誌的な肌合いもだせる》

 そのうえで《そんな、テレビのニュース番組がもつ可能性を感じとっていたからではないか。それを、十分に生かし切って、テレビジャーナリズムの新しい形を作り上げた》と結んでいる。

 それにしても、組織の壁は大きかったにちがいない。関係者によると、「報道のTBS」には意識が高い社員も多かったため、筑紫さんが報道番組のキャスターに就いたことを嫉妬した人もいたそうだ。

 穏やかな語り口で世相を評価する「多事争論」は人気コーナーに。だが、その厳しい視線はTBSにも注がれた。取材映像をオウム真理教の幹部に見せたことが坂本堤弁護士一家殺害事件につながったことが判明した際は「TBSは死んだに等しい」と批判した。長く一緒に仕事をしてきたジャーナリストの金平茂紀さん(70 )は週刊朝日に寄せた追悼文にこう書いた。

《個性的かつ鋭角的な(僕らの仲間うちでは)「エッジのたった」と言っていた企画は、『筑紫哲也NEWS23』のいわば看板だった。「それもニュースなんだよ」。そういう励ましの言葉に制作者たちはどれだけ勇気づけられたことか》

 都知事選への立候補も伝えられたが、奥さんから「あなた、自分の性格を考えなさい」と諭されたという。重い病を背負いつつ、明日への希望を忘れず、ひとりのジャーナリストとして戦後日本の姿を追い続けた。

 次回は、急速進行性間質性肺炎のため昨年12月30日、73歳で急逝した歌手・八代亜紀さん(1950~2023)。「舟唄」「雨の慕情」など、ハスキーな歌声で愛された「演歌の女王」の足跡をたどる。

小泉信一
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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